伝記
敬王は、中国の春秋時代の周の王である。姓は姫、名は丐(か)とされる。周の景王の子として生まれ、紀元前520年から476年まで在位した。
景王の死をめぐっては後継の争いがあった。景王は庶子の王子朝を愛して後継にしようと望んだが、大臣たちは、古くからの継承の決まりに反し天命にも背くとして、この意向を認めなかったという。長子の孟が継ぐのが筋であり、王子朝は庶子であったからである。景王が重病となると、政治は寵臣の賓起が執り、王子朝を支持したが、景王の死後、賓起は単氏や劉氏ら有力者の企てで殺された。兄の悼王が王子朝の反乱で殺されると、紀元前520年11月、敬王が即位して子旅氏の館に身を置いた。敬王の軍は京楚に布陣し、王子朝が拠る京を攻めてその西南を破壊した。
翌紀元前519年には、敬王の軍と晋軍が王子朝側の郊を包囲して破った。しかし晋軍が本国に帰ると、王子朝は尹氏の支援で抵抗を続けて王城を占領し、敬王は単穆公と劉文公の庇護を受けて劉に避難した。このため敬王は東の王、王子朝は西の王と呼ばれ、東西の争いは3年に及んだという。紀元前516年4月、劉文公の軍が尸氏で王子朝の軍を破った。敬王は劉文公とともに劉を出て、渠、萑谷、胥靡、滑と各地に宿営を重ね、10月に滑で兵を起こして郊に入った。11月には晋軍が王子朝側の鞏を落とし、召簡公が王子朝を追放した。王子朝は楚に亡命し、敬王は尸に迎えられて単穆公や劉文公と盟を結び、成周に入り、12月に荘宮に入った。
その後も反乱は絶えなかった。紀元前513年、都で召伯盈と尹氏固、原伯魯の子が殺され、王子趙車が鄻に入って乱を起こしたが、陰不佞が撃破した。粛清が進み、王子朝の支持者は罰せられたともいう。紀元前504年には、周の儋翩が王子朝の残党を率い、鄭人の協力を得て成周で反乱を起こし、敬王は難を避けて姑蕕に滞在した。翌年、単武公と劉桓公が敬王を迎え、晋の籍秦が護送して王城に入った。紀元前502年、単武公は穀城や簡城を、劉桓公は儀栗や盂を攻め、儋翩の乱を平定した。
周は平王のときから洛邑を都として王城と称していたが、敬王の代に、王子朝の勢力が強かった旧都を避けて東に遷都した。新しい都を成周、旧都を王城と呼ぶようになった。紀元前476年、敬王は死去し、子の仁(元王)が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アナクシラス (紀元前476年没)
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