HISTORICAL PERSON · 1797年没

フランソワ・ノエル・バブーフ

フランスの革命家・思想家。私有財産制を否定して平等社会を目指し、『人民の護民官』紙を発刊、「バブーフの陰謀」を企てたが失敗して処刑された。後の共産主義思想に影響し「共産主義の先駆」とも呼ばれる。

生涯
1797年没
死亡地
フランス共和国(ロワール=エ=シェール県 / ヴァンドーム)
出生地
ローマ帝国(サン=カンタン)
出典
世界地図
フランス共和国(ロワール=エ=シェール県)

伝記

フランソワ・ノエル・バブーフは、1760年11月23日(12月24日説もある)に生まれ、1797年5月27日に処刑されたフランスの革命家・思想家である。通称グラキュース・バブーフ。平等社会の実現を目指して私有財産制を否定し、いわゆる「バブーフの陰謀」を企てたが、失敗して処刑された。「共産主義」や「独裁」という語を現代の意味で初めて使った人物の一人とされ、革命は少数の革命家による権力奪取と革命独裁によってのみ実現可能と主張して、後の共産主義思想に大きな影響を与えた。

フランス北部ピカルディーのサン=カンタンに、貧しい農家の長男として生まれた。父クロードは騎兵隊にいたが、1738年に上官に反抗して脱走し、ヨーロッパを放浪した。オーストリアではマリア・テレジアの軍隊に属し、皇太子時代のヨーゼフ2世の教育係を務めたこともあったという。恩赦で帰国して塩税を徴収する役人となったが、反抗的な気性のため失業し、貧困に喘いだ。バブーフは14歳から働き、17歳の頃に土地台帳管理の職を得た。正規の教育を受けられず、父にフランス語、ドイツ語、ラテン語や数学を教わり、独学で知識を吸収した。大変な読書家だったらしい。1780年に父が死去し、2年後にアンヌ・ヴィクトワール・ラングレーと結婚して3人の子を儲けた。長男は、ルソーの著書にあやかり「エミール」と改名した。

1784年、故郷に近いロアで土地台帳管理人として自立したが、この仕事で領主権の不正を目にして、土地私有制の弊害を痛感した。ルソーやマブリーらの著作に接して革命思想に傾倒し、思想の核はこの経験で形成された。1789年に『永久土地台帳』をパリで刊行し、農地均分と税制改革を説いた。同年7月14日、バスティーユ襲撃でフランス革命が勃発し、パリで革命の実態を観察した彼は、時代の激動を直感して行動を開始し、8月に管理人の職を棄てた。帰郷して革命運動に参加し、補助税や塩税、高率の酒税に反対するなどして、繰り返し逮捕・拘禁された。1792年8月にソンム県の行政官に選ばれたが、翌年1月、国有財産の競売に関する文書偽造事件で免職された。欠席裁判で20年の鉄鎖刑を宣告されたため、パリへ逃れ、食糧委員会に書記官の職を得た。

1794年9月に『出版自由新聞』(のち『人民の護民官』)を発刊し、古代ローマの護民官グラックス兄弟にちなんで「グラキュース」と自称した。1795年11月の「平民派宣言」では、「土地は万人のものである」として、必要以上の土地の私有を「社会的窃盗」と指弾し、譲渡権や相続権も否定した。かわりに、物品の共同管理に基づく配給行政を提示した。1795年11月、ブオナローティらの同志と秘密結社「パンテオン・クラブ」を結成し、約2000人が加わったが、1796年2月に警察に閉鎖された。そのうち過激派は反乱委員会などを設け、1793年憲法の実現のための決起を企てたが、総裁カルノーが買収していた会員グリゼルの密告で発覚し、決行前日の1796年5月10日にバブーフは逮捕された。これが「バブーフの陰謀」である。1797年5月26日にダルテとともに死刑を宣告され、短刀で刺し違えて死のうと図ったが果たせず、翌日、ヴァンドームでギロチンにかけられた。

事件はブオナローティが1828年に著書で意義を喧伝し、バブーフの名は広く知れ渡った。歴史学者の多くは陰謀の意義をさほど重要視しないが、共産主義者らは高く評価し、彼の思想を「共産主義の先駆」と位置付けた。

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