伝記
コンドルセ侯爵マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタは、1743年9月17日に現在のエーヌ県リブモンで生まれ、1794年3月にパリ近郊のブール=ラ=レーヌで亡くなった、18世紀フランスの数学者、哲学者、政治家である。社会学の創設者の一人と目される。ドーフィネのコンドルセ侯爵領の領主の家系にあたるため、日本では「コンドルセ」と略される。父は若くして亡くなり、信仰心の厚い母が、息子の教育をランスのイエズス会の学院、次いでパリのナヴァール学院にゆだねた。後年、彼はこれらの学校を強く批判した。1758年にナヴァール学院に入って数学の才能を認められ、16歳のころにダランベールやクレローにその分析力を見いだされて、ダランベールの愛弟子となった。ヴォルテールは彼を「普遍的な哲学者」と呼び、ダランベールは「雪をかぶった火山」と評した。
1765年に最初の数学の論文「積分論」を刊行し、1769年にフランス王立科学アカデミーの会員に推挙された。ベルリンなど各地のアカデミーの会員にもなった。啓蒙思想家たちと親交を深め、『百科全書』には経済学などの論稿を寄せた。1774年に財務総監となったテュルゴーに、造幣局の監督官に任命され、1776年まで片腕として政治改革に関わった。テュルゴーの改革は挫折したが、政治と科学の両方を視野に入れた思想は進展し、1780年代に「道徳政治科学の数学化」、すなわち「社会数学」の企てに着手した。ラプラスらによって整備が進んでいた確率論を社会現象に適用して、合理的な意思決定の指針を与える社会科学を目指したのである。1785年の「多数決の確率に対する解析の応用試論」はその一環で、のちに「コンドルセのパラドクス」と呼ばれる投票の逆理を一般化して示した。この著作でルソーの直接民主制を否定し、間接選挙制を支持した。
フランス革命が起こると、パリ・コミューンの役員となり、1790年にはシェイエスらと1789年協会を設立した。ヴァレンヌ事件以降は共和主義者の論客となり、1791年9月にパリから立法議会に選ばれ、公共教育委員会の議長を務めた。議会は彼の教育案を採用し、教育に世俗主義の考えを持ち込んだ。1792年9月に国民公会議員となり、憲法委員会で1793年2月に憲法案を上程した。女性の参政権も支持し、1790年に「女性の市民権の承認について」を発表した。妻ソフィー・ド・グルシーは、アダム・スミスやトマス・ペインの主要著書を初めて本格的にフランス語に訳した人物で、その聡明さは彼の女性観に影響を与えたといわれる。
しかしジロンド派は没落し、1793年6月に山岳派憲法が可決された。恐怖政治に反対した彼には7月8日に逮捕令状が出され、パリのヴェルネ夫人宅で9か月の隠遁生活を送った。この間に執筆したのが『人間精神進歩の歴史』である。人間の精神が、天文学や純粋数学、神学から、やがて文学、経済学、社会科学のような人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学へ発展してきたと論じ、のちのコントの社会学の基礎となった。その後、令状どおりに逮捕されて、獄中で亡くなった。自殺とされ、51歳であった。唯一まとまった形で出版された論文は、複雑な計算の割に一般的な結論しか導けないと批判され、20世紀初頭にカール・ピアソンが再評価するまで忘れ去られた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・ダントン (1794年没)
- ファーブル・デグランティン (1794年)
- フレゼリク・クリスチャン1世 (1794年没)
- ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー (1794年)
- フルィホーリイ・スコヴォロダ (1794年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・ヨーゼフ・ガル (1828年没)
- ウジェーヌ・グラッセ (1917年没)
- ピエール・パンスマイユ (2018年没)
- ロベール・シャルパンティエ (1966年没)
- ベティ・デイヴィス (1989年没)