HISTORICAL PERSON · 1793年没

ロラン夫人

フランス革命の穏健共和派ジロンド派の指導者の一人。「ジロンド派のミューズ」と呼ばれ、山岳派に捕らえられて処刑された。

生涯
1793年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ロラン夫人は、フランス革命期の穏健共和派であるジロンド派の指導者の一人で、サロンを主宰した女性である。1754年3月17日にパリで生まれ、1793年11月8日に処刑された。本名はジャンヌ=マリー・フィリポンで、通称はマノン、夫が内務大臣ジャン=マリー・ロランであったことから、ロラン夫人と呼ばれる。ジロンド派の黒幕的存在であったことから、「ジロンド派のミューズ」「ジロンド派の女王」とも呼ばれた。

彫金師の父ガシアンと、小間物商の娘である母マルグリットの間に生まれた。父は女好きでギャンブル好きだったが、商売は成功し、一家は快適な環境で暮らした。6人のきょうだいは幼いうちに亡くなり、彼女だけが生き残った。5歳で自ら読み書きを覚え、教理問答の授業で司祭たちがその聡明さに気づいた。一人っ子でもあったため、当時の同じ身分の少女としては多くの教育を受け、書道や歴史、地理、音楽の教師が家に来て、父は素描と美術史を、司祭だった叔父はラテン語を、家庭教師だった祖母は綴りと文法を教えた。母からは家事の切り盛りを学んだ。幼いころは信仰心が篤く、初聖体の準備のため自ら望んで1年間修道院で暮らしたが、数年後には教会の教義に疑問を抱き始め、やがて教会から離れた。それでも神の存在や魂の不死、善を行う道徳的義務は生涯信じ続けた。

家に戻ってからはほとんど独学で、歴史や数学、農業、法学まであらゆる分野の本を読んだ。プルタルコスの『英雄伝』に魅了され、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーらの書物にも親しんだ。ルソーが女性の貞操を表した言葉に感化され、苦痛や自己犠牲を厭わない母性的な勇気と捉えた。美貌に加えて並外れた知性と教養を持っていたが、平民出身であったために貴族に受け入れられず、共和主義者になったとされる。

1776年ごろに、工業監督官のロランと交際し、1780年に20歳の年の差で結婚した。経済学者でもある夫と協力して、公の政治に関わる土台を築いた。1784年に夫妻でリヨンへ赴き、地方の知識人として穏やかに暮らしたが、1789年に革命が起こると政治に積極的に関わり始めた。リヨンの情勢を知人に宛てて書いた手紙が、全国の革命新聞に掲載された。1790年にロランがリヨンの代議員に選ばれ、債務削減の交渉でパリに派遣されると、1791年に夫妻でパリに移った。オテル・ブリタニークでサロンを開き、ブリッソー、ロベスピエールら各界の名士と交流して、ジロンド派を形成した。知性と鋭い分析、粘り強さを備えた優れた交渉者だったが、自分の知的、道徳的優越を確信していたため、ロベスピエールやダントンといった有力者を遠ざけた。女性の政治的権利は主張せず、女性は公の場で控えめな役割を果たすべきだと考えた。

1792年3月に夫が内務大臣になると、影響力は増した。省の書簡や覚書、演説の内容を握り、人事にも関わり、世論に働きかける部局も取り仕切った。6月13日に夫は解任されたが、8月10日の王権停止で復帰した。九月虐殺には抵抗できず、山岳派と対立し、ダントンを激しく罵った。11月にテュイルリー宮殿の鉄の戸棚が発見され、夫が国王の敵国内通を公表して、国王裁判に至った。山岳派との抗争が激化した1793年6月、夫と子供、愛人を逃がした後、ジロンド派で最初に逮捕され、投獄された。獄中で回想録を書き、11月8日に処刑された。「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という言葉を残したとされる。2日後、逃亡先で知らせを聞いた夫は自殺した。

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