伝記
グスタフ3世は、1746年1月に生まれ、1792年3月29日に没したスウェーデン王国のホルシュタイン=ゴットルプ朝第2代の国王(在位1771年〜1792年)である。ロシア帝国やデンマークと戦ってヨーロッパでの名声を高め、ハンス・フォン・フェルセンを臣下として、フランスとの友好関係を深めた。その治世は、文化面から「ロココの時代」とも呼ばれる。1980年代に発行された50クローナ紙幣には、その肖像が使われていた。
幼い頃から、母后ロヴィーサ・ウルリカの期待を受けて教育された。当時のスウェーデンは、農民、市民、貴族らによる身分制議会が政権を握り、事実上は貴族の影響が強かった。母は国王が国政を動かすべきだと考えていて、自身もクーデターを起こしたが失敗している。1771年2月、25歳のとき、父王アドルフ・フレドリクの死で即位した。フランス王ルイ15世の支援を背景に、18か月後の1772年8月19日に、近衛兵を用いてクーデターを起こし、貴族らから権限を奪って、議会に新しい憲法を通し、強力な王権を復活させた。背景には、スウェーデンを弱体化させた「自由の時代」からの脱却と、貴族政治に失望した農民や市民らの支持があった。クーデターは無血で成功し、国王はストックホルム市民の歓喜を受けた。詩人ベルマンは祝詩を贈り、ヴォルテールからも賛美の手紙が届き、「王国の再建者」と称えられた。啓蒙思想を持つ母の影響で内政改革を行ったため、啓蒙専制君主と呼ばれることもある。
彼は演劇を愛し、国内外の俳優や作家を招き、自らも脚本家、演出家、俳優であった。ドロットニングホルム宮殿などで、たびたびオペラや演劇が上演され、1782年にはオペラ座が完成し、1786年にはスウェーデン・アカデミーが設立された。対外関係では、デンマークからは王妃を迎えてバランスを保ったが、ロシアとはままならなかった。エカチェリーナ2世との友好を図ってたびたびロシアを訪れたが、女帝は関心を持たず、国王はフランスのブルボン家との友好を深めた。1784年にはフランスからサン・バルテルミー島を獲得した。アメリカ独立戦争では中立をとり、中立国で最初にアメリカを国家承認して、1783年には友好通商条約も結んだ。
1780年代には強国政策を進め、当初はノルウェー併合を計画したが、デンマークがロシアの軍事力に守られているも同然だったため諦め、東方政策に転換した。1788年6月にロシアに戦争を仕掛け、自らフィンランドで指揮を執った。陸戦では苦戦したが、スヴェンスクスンドの海戦で勝利してエカチェリーナ2世を驚かせた。ロシアが休戦に持ち込んだため完全な勝利にはならず、戦病死者が1万人に及び、戦費も巨額であった。それでもヨーロッパでの名声は得て、フィンランドを確保し、1790年に絶対王政を復活させた。フランス革命が勃発すると、反革命の立場から活発に動き、フェルセンを送り込み、ヴァレンヌ事件を裏で手引きしたとも言われる。拷問の廃止や言論の自由の法制化も行ったが、禁酒法は失敗し、コーヒーも禁止した。
彼の専制は一部の貴族の不満を買い、軍隊の費用のための増税も反発を招いた。1792年3月16日、ストックホルムのオペラ座での仮面舞踏会の最中に、背後から拳銃で撃たれ、2週間後に合併症で亡くなった。実行犯のアンカーストレム伯爵は、鞭打ちと右手の切断の上、4月27日に斬首された。数年前に占い師から暗殺を予告されていたと伝えられる。王妃ソフィア・マグダレーナとの結婚は不幸で、成人した子はグスタフ4世アドルフだけであった。
同じ年に亡くなった人物
- ヤズィード・ベン・ムハンマド (1792年)
- シャルル・シモン・ファヴァール (1792年)
- ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ (1792年没)
- リチャード・アークライト (1792年没)
- デニス・フォンヴィージン (1792年没)
同じ地域に関係する人物
- Lars Ahlin (1997年没)
- カール・ヤルマール・ブランティング (1925年没)
- バルブロ・ヒオルト・アフ・オルネス (2015年没)
- ロヴィーサ・ウルリカ・アヴ・プロイセン (1782年没)
- イングリッド・チューリン (2004年没)