伝記
ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブは、1703年に生まれ、1792年6月22日に没したスンナ派のイスラーム宗教家で、ウラマー(法学者)である。アラビア半島中央部のナジュドの出身で、クルアーンと預言者のスンナだけに基づき、タウヒード(唯一神崇拝)を強調する厳格な復古主義的思想を説いた。預言者ムハンマドに直接接した人々から数えて3世代までの「サラフ」(先祖)が理解していた教えに立ち返ることで、イスラームを「浄化する」ことを訴えた。宗教的なこしらえ物(ビドア)や、多神教(シルク)とみなしたものは、普通のムスリムの生活に根付いた習慣であっても拒絶すべきだとされた。
一般に受け入れられている説では、1703年にナジュドの村に生まれた。出生地はウヤイナではなく、そこから60キロ離れたフライミーだともされる。一家は代々ハンバル学派を奉じるイスラーム法学者の家柄で、幼い頃から主に父アブドゥルワッハーブにイスラーム諸学を学んだ。長じてマッカとマディーナへ巡礼し、そこに何年か留まってウラマーに師事したと言われるが、二つの都市を訪れた時期や順番、旅の長さについては史料や研究者の間で意見が分かれている。1740年にウヤイナに帰るまでの人生は、多くの出来事の日時が分からなくなっており、再構築が難しい。マディーナでは最初、アブダッラーフ・イブン・イブラーヒーム師に学んだが、師は年下の学者アッ=スィンディーを紹介し、弟子にするよう勧めた。二人は非常に親しく交わり、アッ=スィンディーは、問題を解くときに独自に精神的努力を払い結論を導くこと(イジュティハード)や、聖者廟に詣でることは世人がみなやっていても拒否することを教えたとされる。
故郷に戻るとタウヒードの布教を始めた。信者のなかには、アル=ウヤイナの有力者ウスマン・イブン・ムゥアンマルがいて、彼は支配地域をナジュド全域に広げる政治的野望を持っていた。二人は互いの目的のために協力し、イブン・アブドゥルワッハーブは、まず地元民の信仰を集めていた預言者の教友の霊廟を打ち壊した。イスラームの教えは霊廟崇拝を禁じていると唱え、イブン・ムゥアンマルを説得して力を貸させたのである。次に、地元民に神聖視されていた木々を切り倒させ、「すべての木々の中で最も栄えあるもの」は自らの手で切り倒した。密通を告白した女性に石打刑を執行したことでも知られる。こうした動きはナジュドに影響力を持つアミール、イブン・グライルの注意を引き、彼がイブン・ムゥアンマルに、殺すか追放しなければ徴税権を失うと脅したため、イブン・アブドゥルワッハーブはウヤイナを立ち去らされた。
追放後、ウヤイナの南東にあるディルイーヤ(現在のリヤドの一部)に到着すると、地元の有力者ムハンマド・イブン・サウードがうわさを聞いて宿を訪ねた。イブン・アブドゥルワッハーブは預言者ムハンマドの宣教の生涯を説き、現在の住民が教えに背いていると語った。二人は宣教の盟約を結び、アラビア半島の部族を「真正の」教えに立ち返らせることで合意した。イブン・アブドゥルワッハーブは宗教問題を、イブン・サウードは政治・軍事を担うことになり、1744年の協定は、ディルイーヤ首長国(第一次サウード朝)の成立という形で実を結んだ。サウード家は明確な大義名分を得て勢いづき、ナジュドを征服して、さまざまな信仰を多神教に等しいとして根絶やしにする一方、彼の教えを広めた。その子孫は「アール・アッ=シャイフ」と呼ばれ、現代のサウジアラビアで、国家公認の宗教者養成施設を支配し、ウラマーの指導層を形成している。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ロドニー (初代ロドニー男爵) (1792年)
- フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵) (1792年没)
- アルマン・マルク (1792年没)
- ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯) (1792年没)
- リチャード・アークライト (1792年没)
同じ地域に関係する人物
- Ka'b bin Zuhayr (647年没)
- エファト・ビント・モハメド・アール=トゥナヤン (2000年没)
- モハメド・アリ・アキド (1979年没)
- シュラフビール・イブン=ハサナ (639年没)
- トゥルキー・ビン・アブドゥッラー (1834年没)