HISTORICAL PERSON · 1791年没

ジョン・ウェスレー

イングランド国教会の司祭で、メソジスト運動を指導した。この運動からメソジスト派が生まれ、聖化を強調して『キリスト者の完全』を唱えた。

生涯
1791年没
死亡地
イギリス連邦(イズリントン区 / セント・ルークス)
出生地
イングランド王国(Epworth)
出典
世界地図
イギリス連邦(イズリントン区)

伝記

ジョン・ウェスレーは、18世紀のイングランド国教会の司祭で、メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した人物である。この運動からメソジスト派が生まれた。1703年6月28日(ユリウス暦6月17日)にエプワースで生まれ、1791年3月2日にロンドンで没した。父サミュエルは聖職者、母スザンナは知恵と知性に優れた敬虔な女性で、19人の子のうち9人が幼くして亡くなり、ジョンは15番目の子だった。母は子どもたちに聖書の物語を語り聞かせて育てた。6歳だった1709年2月9日、牧師館が火事になり、2階に取り残された彼は窓から救い出された。のちに自分を「火から取り出された燃えさし」と呼び、この出来事は特別な使命を示す逸話になった。

シャーターハウス校を経て、1720年にオックスフォード大学のクライスト・チャーチに入り、1725年に助祭となった。ケンピスやテイラー、ウィリアム・ロウの書物を読み、神秘主義に関心を持ち、服従のうちに救いがあると信じて、厳しく規則正しい生活を送った。1726年にリンカーン・カレッジのフェローに選ばれ、ギリシア語を教え、新約聖書を講じた。1727年に修士課程を終えてエプワースに戻り、1728年9月22日に司祭に叙階されて2年ほど助任司祭を務めた。1729年に大学に戻ると、弟チャールズらが始めた小さな集まりの指導者となった。ホーリー・クラブと呼ばれるこの集まりは、毎日祈りと詩篇、ギリシア語の新約聖書の読書を行い、禁欲的な規律を守った。後のメソジストという通称は、この日課の方法にちなむ。

大学を出て司祭となったウェスレーは、アメリカ・インディアンへの宣教を志して植民地アメリカに渡ったが、ほとんど活動できず、失意のうちに帰国した。このころまでは厳しい戒律主義者で、自分の信仰に自信が持てなかった。1738年、モラヴィア兄弟団の人から聞いたルターの説教集の一句に触れ、救いは戒律や善行の末ではなく、すでにキリストの自己犠牲によって与えられているのだと回心する。以後、この福音と社会奉仕を広めるため信仰覚醒運動を始めた。ジョージ・ホウィットフィールドとも途中まで行動を共にしたが、ホウィットフィールドはカルヴァンに近い考えだった。辻説教者を多く用いた運動は国教会の激しい反発を招き、邪教集団として迫害された。信徒も初めは国教会の礼拝に出ていたが、次第に相容れなくなり、独自の礼拝と集会所を持つようになった。ウェールズのメソジストは別の道を歩み、のちに長老派を形成した。国教会の妨害には主に法廷闘争で対抗した。

後半生は、鉄道のなかった英国とアイルランドを馬で巡り、野外説教を行い、聖職者との関係を失った信徒に聖餐を授けた。彼の説教には難しい言葉が多く大衆には分かりにくかったが、情熱が感銘を与えた。国王には忠誠を誓い、国策にも概して協力的だった。アメリカが独立すると、新大陸のメソジストをメソジスト監督教会として組織し、キング男爵の初期教会史の書で、聖書では監督と長老が同等だと自覚したため、長老の立場でありながら、信徒伝道者に按手礼を授ける権限を認め、国教会から独立させた。自身は妻帯していた。電気ショックの療法を信じ、信徒や受刑者に自ら施したという。

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