HISTORICAL PERSON · 1674年没

ジョン・ミルトン

イングランドの詩人。共和派の運動家としてクロムウェルを支持し、政府のラテン語秘書を務め、言論の自由を論じた『アレオパジティカ』を発表。失明後に長編叙事詩『失楽園』を著した。

生涯
1674年没
死亡地
イギリス連邦(イズリントン区 / セント・ルークス)
出生地
イギリス連邦(チープサイド)
出典
世界地図
イギリス連邦(イズリントン区)

伝記

ジョン・ミルトンは、1608年12月9日にロンドンで生まれ、1674年11月に没したイングランドの詩人である。共和派の運動家としてオリバー・クロムウェルを支持し、清教徒革命の時代に政治的・宗教的な論争文書を数多く書いた。代表作『失楽園』は、ダンテの『神曲』やアリオストの『狂えるオルランド』と並ぶルネサンス期の長編叙事詩の名作とされる。

生家はロンドンのブレッド・ストリートにあり、父は同名の作曲家ジョン・ミルトン、母はサラ・ジェフリーであった。父は新教に改宗したため熱心な旧教徒の父に勘当され、ロンドンへ出て代書の仕事で長く安定した成功を収めた。音楽の才に恵まれた父は、息子に生涯の音楽好きを残し、ヘンリー・ローズらとの親交ももたらしたという。裕福な父は家庭教師トマス・ヤングを雇い、のちにセント・ポール校へ進んだ息子はラテン語とギリシャ語を学び、古典語はその英語詩に跡を残した。1625年にケンブリッジ大学クライスツ・カレッジに入学した年にチャールズ1世が即位した。学生仲間の評判はあまりよくなかったとされる。1629年に学士号、1632年に修士号を得た。

1634年に仮面劇『コマス』が上演され(出版は1637年)、1637年に母を亡くした。1638年からフランスとイタリアを周遊し、天文学者ガリレオ・ガリレイにも会ったという。帰国後は司教制を攻撃する散文を書き、1642年に王党派の家の娘メアリー・ポーエルと結婚した。1644年には言論の自由を論じた『アレオパジティカ』を発表し、翌1645年には英語とラテン語の詩集を出している。1649年にチャールズ1世が処刑され、同年3月に国務会議の外国語担当秘書に任命されて、政府のラテン語秘書として共和制を弁護した。この年には『国王と為政者の在職権』や『偶像破壊者』も書いた。1651年に『イングランド国民のための第一弁護論』、1654年に『第二弁護論』を著している。過労が重なり、1652年とも1654年ともいわれる時期に完全に失明した。

1660年の王政復古は、完全に失明していた彼から公の舞台を奪ったが、この時期に主要な詩作の大半を仕上げた。王政復古後も共和制を擁護して君主制を批判し続け、一時は身を隠して逮捕令状も出されたが、のちに赦された。無韻詩による長編叙事詩『失楽園』の執筆には1650年代後半から打ち込み、1658年に着手したとされ、同じころに後妻が死んだ。1662年にエリザベス・ミンシュルと結婚し、生涯に三度結婚した。『失楽園』は1667年に出版された。晩年の1671年には、前作に呼応した『復楽園』と、失明や奴隷状態を力強く描いた悲劇『闘士サムソン』を書いた。

1674年に没したとき、ミルトンは貧しく、イングランドの知的生活の周縁にあったが、ヨーロッパ全体では名声を保ち、政治的選択を悔いなかったとされる。サミュエル・ジョンソンは『失楽園』を、構想では第一位、出来映えでは第二位を主張しうる詩と称えた一方、その政治を「苦々しく気難しい共和主義者」のものと評した。1796年に出たウィリアム・ヘイリーの伝記は彼を「最大の英国作家」と呼び、政治論文は合衆国憲法の起草にも参照されたという。

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