HISTORICAL PERSON · 600年没

サビニアヌス

東ローマ帝国の政治家・将軍で、サビニアヌス・マグヌスの子。505年に執政官を務め、508年にイリュリクム軍司令官となったが、ホレウム・マルギ近くでフン族と東ゴート族の連合軍に敗れた。

生涯
600年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

サビニアヌスは、東ローマ帝国の政治家・軍人で、505年に執政官(コンスル)を務め、508年頃まで活動が確認される。父は479年から481年にかけてイリュリクム軍司令官を務めたサビニアヌス・マグヌスである。兄弟にフラウィウス・モスキアヌスがいたとされる。皇帝アナスタシオス1世の姪を妻とし、517年に執政官となった子のアナスタシオスをもうけた。娘はフラウィウス・プロブスに嫁いだと伝えられる。

505年、サビニアヌスは東方の執政官に就き、西方の執政官はフラウィウス・テオドルスであった。同じ年、イリュリクム軍司令官としてフン人・ゴート人・ヘルール人などの混成軍を率いるムンドと戦うために出陣した。ムンドは、後世の記録ではゲピド人の首領ともされるが、むしろフン人系の冒険者であったとも考えられている。ゲピド人を破ったのち、なおドナウ川沿いにいたテオドリックの軍勢もピッツィアの指揮のもとでムンドに加わった。ムンドはドナウ右岸の要塞化した地を拠点にイリュリアの属州を略奪した。

サビニアヌスの軍は大規模で装備も整っていたが、マルグム(ホッレウム・マルギ)付近、ドナウ川とモラヴァ川の間の平原で、フン人を率いるムンドとオストロゴート人を率いるピッツィアの連合軍に敗れた。この戦いは血なまぐさいもので、東ローマ軍には1万の同盟ブルガール人も加わっていたとされる。兵の多くは川で溺れたともいわれ、サビニアヌスは少数の生き残りとともにナトゥスの城塞へ逃れた。この敗北によって、ドナウ・サヴァ国境を取り戻そうとした帝国の最後の試みは挫折したと評される。年代記作者はこの戦いについて、悲嘆すべき戦いで兵士たちの多くの希望が失われたと記している。

敗れた相手については、年代記がムンドだけを挙げ、別の記録はゴート人とブルガール人の戦いを重く見ていることから、ムンドが東ローマ軍を、ピッツィアがブルガール人を相手にしたと推測する歴史家もいる。また、サビニアヌス自身の中核の部隊、おそらく父から受け継いだ私兵が壊滅したことを意味する表現も当時の文献にあるという。なお、505年に執政官となった人物と、イリュリクム軍司令官としてムンドと戦った人物は同一であると、当時の年代記から確かめられる。

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