伝記
アグリッパ・メネニウス・ラナトゥスは、共和政ローマの政治家、軍人である。単にメネニウス・アグリッパとも呼ばれ、紀元前503年に執政官(コンスル)を務め、紀元前493年に没した。メネニウス氏族のラナトゥス家の出身で、弁舌に優れた人物であったとされる。
紀元前503年の執政官には、同僚のプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスとともに就任した。この年の出来事については伝えが分かれる。リウィウスによれば、ラティウム同盟のポメティアとコラが離反してラティウム南東に住むアウルンキ人についたが、両執政官はラティウム戦争に勝利し、凱旋式が挙行されたという。一方、リウィウスとほぼ同時代のディオニュシオスによれば、この年サビニ人が三度目のローマ侵攻を企てた。まずトゥベルトゥスが出陣したが敵を侮って敗れ、そこへメネニウスが駆けつけて救援し、後日力を合わせて敵を破った。そしてメネニウスが凱旋式を、トゥベルトゥスが小凱旋式を行ったとされる。凱旋式記録碑には、執政官在任中にサビニ族との戦いに勝利し、紀元前503年4月4日に凱旋式を行ったことが記され、前日にはトゥベルトゥスも小凱旋式を行っている。
メネニウスの名をもっとも広く知らしめたのは、紀元前494年の第一次プレブス(平民)の分離運動である。平民たちはモンテ・サクロ(聖山)に立てこもり、平民だけで国を作ると宣言した。リウィウスの著作は500年も後に書かれたものではあるが、それによればメネニウスはパトリキ(貴族)の代表に選ばれて平民のもとへ赴き、有名なたとえ話を交えて説得したという。人の体にたとえると、体の各部分はそれぞれ全体の利益のための役割を担っている。他の部分は、腹がただ食べるだけで何もしないと考え、腹に食物を運ぶのをやめた。ところがすぐに体じゅうが飢えて働かなくなった。そのとき初めて、腹はただ養われているのではなく血を全身に送り出す重要な働きをしており、腹なしには何もできないと悟ったのである。この寓話ではパトリキが腹、平民がそれ以外の部分にあたる。その後、パトリキと平民は和解し、護民官の制度が作られた。この話はリウィウスの時代でも新しいものではなく、クセノポンの『ソクラテスの思い出』やキケロの『義務について』にも似た話があり、パウロもコリントの信徒への手紙一で同様の話を用いている。
メネニウスは紀元前493年に世を去った。リウィウスは、彼がパトリキからも平民からも愛され、とくに説得に成功したあとは平民にいっそう愛されたと記す。残した財産では葬儀をまかなうのに足りず、市民たちが少しずつ費用を持ち寄ったという。ただし、元老院が葬儀の費用は国庫から支出すべきだと主張し、平民の拠出金は故人の子らに渡されたとも伝えられる。子は一人で、同名の息子が紀元前439年に執政官になっているが、子ではなく孫とする説もある。シェークスピアの『コリオレイナス』にも登場人物の一人として描かれている。
メネニウスの身分には謎が残る。リウィウスは「雄弁な男であり、平民の生まれである」と書くが、元老院の代表として平民の説得に赴き、執政官も務めたことから、当時は執政官になれるのはパトリキだけと考えられており、すでにパトリキであったと見る向きもある。初期ローマの歴史は、原資料の著者が元老院議員か一般市民かによる偏りもあって不明な点が多く、パトリキと平民の抗争そのものを疑う現代の学者もいる。
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