伝記
モーゼス・メンデルスゾーンは、ドイツのユダヤ人哲学者・啓蒙思想家である。1729年9月6日、貧しい聖書筆写師の子として、ドイツのデッサウに生まれた。母語は西方イディッシュ語であった。父の名はメンデルといい、モーゼスは当初モーゼス・メンデル・デッサウなどと呼ばれていたが、のちに「メンデルの息子」を意味するメンデルスゾーンの姓を名乗るようになった。のちに息子アブラハムは、この名にすることが、教養ある人々に近づく妨げを取り除くうえで必要で、小さな変更ながら決定的だったと書いている。ロマン派の作曲家フェリクス・メンデルスゾーンの祖父にあたる。
貧しいユダヤ人の家だったため学校には通えず、父とラビのダヴィド・フレンケルから、聖書、マイモニデスの哲学、タルムードなどの教育を受けた。幼いころに背骨の湾曲を患ったという。1743年にフレンケルがベルリンに招かれると、数か月後に14歳のモーゼスも後を追い、ユダヤ人が通れる唯一の門からベルリンに入った。貧困と戦いながら、ほぼ独学で哲学を修得し、ポーランドからの亡命ユダヤ人に数学を、若いユダヤ人医師にラテン語を習った。乏しい稼ぎでロックの著作のラテン語版を買って辞書を頼りに読み、ほかに英語、フランス語も学んだ。ライプニッツやヴォルフ、スピノザの哲学にも親しみ、これらの教養が哲学の下地となった。
1750年、21歳のとき、裕福なユダヤ人絹商人イサーク・ベルンハルトに家庭教師として雇われ、4年務めたのち、簿記係となった。のちに社員、共同経営者となった。1754年、劇作家レッシングを知る。レッシングの劇ではユダヤ人が高貴な人物として描かれ、メンデルスゾーンは深く感動し、啓蒙思想へ導かれたという。レッシングの代表作『賢者ナータン』のモデルは彼とされる。二人は数か月で親しい同志となり、レッシングは1755年に、彼の『哲学対話』を、本人に断らず匿名で出版した。同じ年に、レッシングとの共作の風刺書も出た。
1762年にフローメット・グッゲンハイムと結婚し、翌年にはベルリン・アカデミーの懸賞論文に、数学の証明の形而上学への応用を論じて当選した。応募者の中にはカントもおり、カントは次席だった。同年10月、国王から保護ユダヤ人の特権を与えられた。1767年に出した『パイドン、または魂の不死について』は、プラトンの対話篇に倣った書で、美しく明晰な文体で評判を呼び、ヨーロッパの諸言語に訳された。彼は「ドイツのプラトン」「ドイツのソクラテス」と称えられた。
感覚と信仰の上に立つ哲学を説き、カントの批判哲学を論難した人物の一人ともみなされるようになった。晩年は主に神の存在の証明に没頭し、『暁』を著した。また、親友レッシングがスピノザ主義者であるか否かをめぐり、ヤコービらと汎神論論争を起こした。反論書『レッシングの友人たちへ』を刊行しているさなか、風邪をこじらせ、1786年1月4日に没した。キリスト教徒から蔑視されたユダヤ教徒にも、人間の権利として市民権が与えられるべきだと訴え、信仰の自由の保証が必要だと説いた。ユダヤ教徒の身分的解放という点で、果たした役割は大きい。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=エティエンヌ・ゲタール (1786年没)
- ジョン・グッドリック (1786年没)
- Gasparo Gozzi (1786年)
- フリードリヒ2世 (プロイセン王) (1786年没)
- Johann Kaspar Fussli (1786年)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1783-1851) (1851年没)
- カール・アウグスト・ボレ (1902年没)
- ジョージ・グロス (1959年没)
- フリードリヒ・エーベルト (息子) (1979年没)
- カール・ハインリヒ・コッホ (1879年没)