HISTORICAL PERSON · 1959年没

ジョージ・グロス

ドイツ出身の画家で、20世紀最大の諷刺画家といわれる。ベルリンの労働者の家庭に生まれ、ドレスデンの王立美術院に学んだ。

生涯
1959年没
死亡地
西ドイツ(ベルリン / 西ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
西ドイツ(ベルリン)

伝記

ジョージ・グロスは、1893年7月26日にベルリンで生まれたドイツ出身の画家で、20世紀最大の諷刺画家といわれる。本名はゲオルク・エーレンフリート・グロースといい、労働者の家庭、あるいは酒場を営む家の三男として生まれた。両親は敬虔なルター派で、7歳の時に父を亡くしたという。母や姉妹とともにベルリンのヴェディング地区に移り、従兄弟の勧めで地元の画家の週1回の絵の教室に通い始めた。1908年には、中学校で暴力をふるう教師を殴り返して退学処分を受けた。1909年からドレスデンの王立美術院で学び、1910年には諷刺雑誌に最初の作品が掲載され、複数の雑誌に関わるようになった。

1914年11月、第一次世界大戦を「すべての戦争を終わらせるための戦争」と賛美して志願兵となった。しかし病気や負傷で入院生活を送るうちに戦争の実態に幻滅し、1915年に除隊した。入院の理由は重傷とも副鼻腔炎ともされる。1917年1月に再び徴兵されたが、同年5月には兵役不適格とされ、再び除隊となった。1916年には、ドイツの民族主義や愛国主義を嫌い、名を英語風のジョージに、姓をハンガリー語風の表記に改めた。アメリカへの憧れも理由とされ、友人のジョン・ハートフィールドも同じ頃に改名している。1917年にはベルリンのダダイストの集団に加わった。

1919年1月にスパルタクス団に関係して逮捕されたが、偽の身分証を使って逃亡し、同年ドイツ共産党に入党した。1920年にエヴァ・ルイーズ・ペーターと結婚し、航空史家となったペーターと、ジャズギタリストとなったマルティンの二人の息子をもうけた。同年に刊行した諷刺画集『神は我らと共に』は、陸軍を侮辱するものとして告発され、300マルクの罰金と原版の没収を受けた。1922年に約半年ロシアを旅してレーニンやトロツキーらに面会したが、独裁組織に嫌気がさしてドイツ共産党を脱退した。ただし、1927年までは共産党の刊行物の常連であり続けた。1924年には画集『この人を見よ』が猥褻にあたるとして有罪判決を受け、同年に芸術家組織「赤い集団」の会長となった。1928年には神を冒涜したとして告発されたが、控訴を経て無罪になったという。この年に「ドイツ革命的芸術家協会」の共同創設者にもなった。

ナチスに対しては激しく敵対した。1932年にニューヨークの美術学校アート・スチューデンツ・リーグに招かれて渡米し、いったん帰国したのち、ナチスを避けて1933年にアメリカへ亡命した。1938年にアメリカに帰化した。アメリカになじもうとする努力のなかで社会諷刺の筆は鋭さを失い、作風は大きく変わった。1936年に同校の教師を辞したのちは自ら画塾を開いたが、生徒の多くは中流階級の上品な女性で、彼本来のえげつない画風を発揮する余地はなかった。1946年に自伝『小さなイエスと大きなノー』を刊行し、1954年にアメリカ美術文学アカデミーの、1958年にドイツ美術アカデミーの会員となった。1959年にドイツに帰国したが、飲酒中の事故により転落死した。太宰治が弘前高等学校の頃に、日本で初めて出版された彼の画集に感心して、級友に披露したという話も伝わる。

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