伝記
シャルル・マリ・ボナパルトは、コルシカ島の貴族であり、法律家、外交官で、ナポレオン・ボナパルトの父として知られる。コルシカ語(イタリア語)ではカルロ・マリア・ディ・ブオナパルテと呼ばれた。1746年3月末に、当時ジェノヴァ共和国領だったコルシカ島のアジャクシオに生まれ、1785年2月24日に没した。
生家のブオナパルテ家は、トスカーナの出身である。13世紀に先祖のグリエルモがフィレンツェの市議会に仕えたが、教皇派が権力を握ると、一族はサルザーナへ逃れた。16世紀に子孫のフランチェスコが新しい暮らしを求めてリグーリアからコルシカ島へ渡った。シャルルの父ジュゼッペ・マリアは、母マリア・サヴェリア・パラヴィチーニとの間にシャルルをもうけた。姉マリア・ゲルトルーデと兄セバスティアーノがいる。父は1749年にアジャクシオの代表としてコルテの評議会に出た。
はじめは父の跡を継いで法律家になるためにピサ大学に入学した。しかし父の死で多額の遺産を相続したため、学位を取る前に帰郷し、家族を養う立場に立った。1764年6月、18歳のときに、14歳のマリア・レティツィア・ラモリノと結婚した。ラモリノ家はロンバルディアの貴族を祖先にもち、コルシカに250年住んでいた。結婚は両家が取り決めたもので、経済的な要因のほかに、方言や食習慣、宗教上の習慣などの文化的な適合も重視された。レティツィアの持参金は、水車とパン屋を含む31エーカーの土地で、年に約1万フランスポンドの収益があった。この後、8人の子を育てた。12人の子のうち、4人が夭逝している。
結婚後は、パスカル・パオリのもとで秘書や副官として仕えた。1765年に息子ナポレオーネが幼くして亡くなっている。1766年、パオリに派遣され、教皇クレメンス13世との交渉のためにローマへ行ったが、1768年には理由が分からないままコルシカ島に戻された。そのころジェノヴァ共和国は、負債の代わりに島をフランス王ルイ15世へ譲る決定をした。フランスは自国の沿岸防衛のための要地として島を欲しがり、ジェノヴァも独立運動への対処に手を焼いていた。政変でパオリの支持者たちは山中へ逃れ、シャルルの一家もそのなかにいたが、やがて町に戻った。フランスの「侵略」に熱烈な抗議の演説をして注目を浴びたが、敗戦後にフランス側へ転じ、総督マルブフと親しくなり、1769年には王室裁判所の判事となった。同年、ピサ大学で法学博士となった。
1770年、フランスはコルシカ島に貴族制度を設けた。シャルルは1769年にトスカーナの貴族の称号を持っており、1771年にこれが認められた。ボナパルト家は貴族の仲間入りを果たし、息子たち、とくに三男のナポレオンを本土の士官学校で学ばせることができた。コルシカ貴族の代表を務め、1777年に貴族代表として宮廷に赴き、1778年にはヴェルサイユのルイ16世の宮廷にコルシカの代表として派遣された。しかし名誉ある地位を得たものの、リスクのある事業に手を出し、ギャンブル好きも重なって、深刻な金銭問題を抱えた。「パリで国王から4千フランを受け取り、政府から千エキュの手数料を得たが、一文なしで戻った」と帳簿に記している。
1782年から体調を崩して疼痛に襲われ、モンペリエまで治療を求めて行ったが、有効な手立てはなかった。病は胃癌とみられ、息子のナポレオンも同じ病で亡くなったと考えられている。1785年に死去した。その後、ナポレオンはフランス革命期に姓名をフランス語風に改め、家名もブオナパルテからボナパルトに変わった。
同じ年に亡くなった人物
- マリーア・アントニア・ディ・スパーニャ (1785年没)
- ルイス・アントニオ・デ・ボルボーン・イ・ファルネシオ (1785年没)
- フリーデリケ・フォン・ヴュルテンベルク (1785年没)
- フリードリヒ・アウグスト1世 (オルデンブルク公) (1785年没)
- フリードリヒ2世 (メクレンブルク公) (1785年没)
同じ地域に関係する人物
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