伝記
レオンハルト・オイラーは、1707年4月15日にスイスのバーゼルで生まれ、1783年9月18日に亡くなった数学者、理論物理学者、天文学者である。当時の数学界の中心的人物となり、19世紀へと続く厳密化と抽象化の時代の礎を築いた。右目を失明していたことから「数学のサイクロプス(単眼の巨人)」とも呼ばれた。父も数学の教育を受けた人物だったが、息子には自分の後を継いで牧師になることを望んだ。1720年にバーゼル大学へ入って哲学を学び、ここで数学者ヨハン・ベルヌーイと出会い、数学の才能を見いだされた。1724年にはいったん神学の道に進んだが、本人は数学に強い興味を抱いており、その才能を見込んだベルヌーイが両親を説得したため、数学専攻へ転じた。
1727年、ロシア帝国のサンクトペテルブルクの科学アカデミーに赴任し、師ヨハンの子であるダニエル・ベルヌーイの同僚となった。1733年にダニエルがスイスに帰った後も、同地にとどまった。1734年には画家の娘カタリーナ・グゼルと結婚した。1735年には、数論の未解決問題だったバーゼル問題を解決して有名になった。しかし1738年ごろに、おそらく神経ブルセラ症のために片目の視力を失い、帝政ロシアの政情不安もあって、研究生活は不安定になった。オイラー自身は、地図作成の作業での目の酷使が原因だと考えていた。
1741年、プロイセン王フリードリヒ2世の依頼でベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住した。ここでも高い業績を上げ、『無限解析入門』と『微分学教程』という2冊の数学書を出版した。アンハルト=デッサウ公女の教育のために自然科学の入門書も書き、のちに『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』として出版された。この本は欧米で一般読者向けの科学書として広く読まれ、オイラーの最も有名な著書となった。啓蒙君主を自認するエカチェリーナ2世が即位し、1766年に再びサンクトペテルブルクに戻って厚遇された。しかし視力はさらに落ち、残っていた左目も白内障のため、1771年ごろ(1766年とする説もある)には両目を完全に失明した。両目の失明後は、子どもたちが口述を筆記して論文に仕上げた。
失明後も研究意欲は全く衰えず、驚異的な暗算の能力と記憶力で、頭の中で論文を「執筆」し、口述筆記してもらうことで多数の論文を作った。失明を「気が散ることが少なくなる」と前向きに捉え、1775年には週に平均1本の論文を書いたという。解析学では、級数や連分数、微分方程式、特殊関数など、あらゆる領域で業績を残し、指数関数と三角関数を結ぶオイラーの公式などにその名が残る。ゼータ関数を初めて扱い、1735年にはその2での値を求め、1737年には素数との関係を表すオイラー積を発見した。幾何学では「ケーニヒスベルクの橋の問題」に取り組み、一筆書きが可能になる条件を求めて、グラフ理論の起源をつくった。力学では、1736年に力を明確に定義して解析的な運動方程式を与え、1755年には流体力学の基礎方程式を導き、1748年には、現代の「y=f(x)」の形で関数を表した。
人類史上最多とも言われる膨大な論文と著書を遺した。確認された論文は886編で、全集は1911年から刊行され続けているが、いまだ完結していない。1783年に76歳で亡くなるその日まで精力的に研究を続け、墓所はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院にある。スイスの10フラン紙幣には、その肖像が使われていた。
同じ年に亡くなった人物
- ゲラルド・ミュラー (1783年)
- ジャン・ル・ロン・ダランベール (1783年没)
- ニキータ・パーニン (1783年没)
- フランツ・メッサーシュミット (1783年)
- ヨハン・フィリップ・キルンベルガー (1783年没)
同じ地域に関係する人物
- エリザヴェータ (ロシア皇帝) (1762年没)
- マリア・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤ (1914年没)
- Natalya Alexeevna of Russia (1716年没)
- ミハイル・スペランスキー (1839年没)
- Friedrich von Adelung (1843年没)