伝記
エリザヴェータ・ペトロヴナは、ロマノフ朝第6代のロシア皇帝(在位1741年~1762年)である。1709年12月29日(ユリウス暦12月18日)に生まれ、ピョートル1世の娘、母はエカチェリーナ1世であった。両親の正式な結婚は1712年だったため、1709年の誕生時点では、姉アンナとともに非嫡出子であった。生き残ったのは、両親の子12人のうちこの二人だけだったという。父は娘を自分の「女性版」のように愛したが、教育に割く時間はなく、母は素朴で読み書きに不自由だったので、教育は不完全で一貫しなかった。それでもフランス人の家庭教師がつき、イタリア語、ドイツ語、フランス語に通じ、舞踏と乗馬にも優れて、帝国一の美女と呼ばれた。
縁談は父の存命中から何度もあった。父は娘をフランス王ルイ15世に嫁がせようとしたが、ブルボン家に断られ、次にホルシュタイン=ゴットルプ家の公子カール・アウグストと婚約したものの、死別した。その後は、先帝の娘である彼女に求婚することが、女帝アンナ・イワノヴナへの敵対と受け取られかねなかったため、結婚の話は進まなかった。母エカチェリーナ1世と甥のピョートル2世が亡くなったときには、有力な後継候補とされたが、いずれも非嫡出を理由に阻まれた。しかし、大帝の娘として軍隊での人気は極めて高く、アンナ女帝の政府は彼女を危険視していた。
1741年11月25日、修道院に幽閉される危険が高まると、自らを支持する近衛軍に命じて、摂政アンナ・レオポルドヴナら政府要人を逮捕させ、幼帝イヴァン6世を退位させた。自分こそ父ピョートル大帝の真の継承者だと演出して即位の正統性を主張し、クーデターを成功させた。イヴァン6世を支持する側の陰謀も潰して、地位を安定させた。シュリッセリブルクに幽閉したイヴァン6世は、救出の企てがあれば直ちに殺すよう命じ、この命令は後の皇帝たちにも引き継がれた。のちにエカチェリーナ2世の時代に救出が試みられると、イヴァン6世は看守に殺害され、要塞内に秘かに葬られた。
早い時期に統治への熱意を失い、1740年代はベストゥージェフ=リューミンが、1750年代はシュヴァロフ兄弟やヴォロンツォフ伯爵が中心となって政治を動かした。国内では税制改革で危機的だった国家財政が立て直され、国内関税が撤廃され、貴族に領地開発資金を貸す銀行も設立された。貴族は農奴を働かせて工場を経営して成功し、18世紀後半には貴族を主な受益者とする経済成長が実現した。死刑の廃止、1743年の元老院の設置、1755年のモスクワ大学の設立、1757年の美術アカデミーの創設も、この治世のことである。
対外戦争も頻繁に行われた。1741年にスウェーデンがフィンランドへ侵攻した戦いに勝ち、1743年にフィンランド南部の一部を得た。オーストリア継承戦争では1748年に参戦したが、見返りは得られなかった。七年戦争では、プロイセン王フリードリヒ2世を嫌ったこともあり、オーストリア、フランスと連合し、1759年のクネルスドルフの戦いでプロイセン軍に大勝した。
1742年11月7日、甥のカール・ペーター・ウルリヒ(のちのピョートル3世)を後継者に指名し、彼は改宗してピョートルと名乗った。その妻が1754年に長男パーヴェルを産むと、女帝はこの赤子を引き取って溺愛した。1750年代末から健康が悪化して立ちくらみが頻発したが、処方された薬を拒み、自分のいる場で「死」の語を禁じた。1762年1月5日に亡くなり、6週間後の2月3日にペトロパヴロフスキー大聖堂に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- Prosper Jolyot de Crebillon (1762年)
- メアリー・ウォートリー・モンタギュー (1762年没)
- フランチェスコ・ジェミニアーニ (1762年没)
- フランチェスコ・マンフレディーニ (1762年没)
- パウル・トロガー (1762年没)
同じ地域に関係する人物
- イワン・オボレンスキー (1910年没)
- ヨーハン・トビアス・ローヴィッツ (1804年没)
- Feodor Levinson-Lessing (1939年没)
- ミハイル・ミロラドヴィチ (1825年没)
- アレクサンドル・プーシキン (1837年没)