HISTORICAL PERSON · 590年没

ギスルフ1世 (フリウーリ公)

初代フリウーリ公とされる、ランゴバルド王国の建国者アルボインの甥。もとは王の盾持ちで、パウルス・ディアコヌスに「何にも適した男」と評された。569年に公となり、牝馬の群れを授かって同地に留まった。

生涯
590年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ギスルフ1世は、ランゴバルド人がイタリアに築いたフリウーリ公国の初代の公とされる人物である。ランゴバルド王国の建国者アルボインの甥とされるが、その関係は史家パウルス・ディアコヌスの書きぶりからは必ずしも明確ではない。「と伝えられる」という言い回しで述べられており、文の係り方も二通りに読めるためである。父のグラスルフ1世を初代フリウーリ公とみる説もあり、兄弟のグラスルフが公位を継いだとする説明も見られる。生年は伝わっていない。

アルボインがイタリアに侵入した568年から569年ごろ、ギスルフは王に従う者として戦いに加わっていた。その役目は、盾持ちとも、馬を司る「マルパヒス」、すなわち騎兵の指揮官とも説明される。パウルス・ディアコヌスは彼を「あらゆる点で適した男」と評した。ヴェネトを制圧したのち、アルボインは彼をフォルム・ユリイ、すなわちフリウーリの公に任じ、チヴィダーレを中心の町とさせた。フランス語圏の説明では、これはランゴバルド人が最初に設けた公国であり、フリウーリは国境を押さえる要地だったという。

ギスルフはアルボインに、自分とともにこの地に残る「ファラ」と呼ばれる一族の集団を自分で選びたいと願い出て、許された。こうして定住する家々を選び、指導者としての栄誉を得たという。ファラは、家族のつながりに基づきながら、それぞれ軍事上の役目を負った集団と考えられている。さらにアルボインは、大きな牝馬の群れを授けた。平原を見回る騎兵が敵の接近を素早く知らせるためだったともいわれる。フリウーリは、パンノニアのアヴァール人やイストリアのスラヴ人、ビザンツ帝国への備えとして語られてきた。一方、ドイツ語圏の研究では、その役目は国を守ることよりも、ランゴバルド人が敗れた場合に半島から安全に退く道を確保することや、東方の属州をヴェネトのビザンツ領から切り離すことにあったとも論じられている。ランゴバルド人はパンノニアをアヴァール人に委ね、必要があれば戻れるという取り決めを結んでいたとされる。

574年にアルボインの後継者クレフが殺されると、ランゴバルド人は十年ほど新しい王を立てず、35人の公の支配のもとに置かれた。この時期は「公の時代」と呼ばれる。ギスルフはこの間も公として在位しており、パウルス・ディアコヌスは彼を、ティチヌム、ベルガモ、ブレシア、トレントの各公と並ぶ有力な五人の公のひとりに数えている。ギスルフが王に選ばれることは考えられなかったようで、殺された王の一族だったためとも、有力な家の出ではなかったためともいわれる。アヴァール人はランゴバルド人の弱みに乗じようとはしなかった。

没年には諸説がある。585年に死去し、息子のギスルフ2世が後を継いだとする説明がある一方、580年ごろ、あるいは581年より前に亡くなったとする説もある。後者では、後継者は兄弟のグラスルフで、その子ギスルフ2世が590年ごろに公位を継いだとされる。メロヴィング朝側から出されたとみられる書簡がグラスルフに宛てられていることも、その根拠のひとつとして挙げられている。チヴィダーレでは1874年に初代公の石棺が見つかったとされたが、刻まれた銘は19世紀の偽作とみられ、それがギスルフ1世の墓なのか、同名の甥の墓なのかははっきりしない。町の城壁の内側では、6世紀後半の木造建築の跡も見つかっている。

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