伝記
ジャック・テュルゴーは、1727年5月10日にパリで生まれ、1781年3月18日に没したフランス王国の政治家であり、重農主義の流れをくむ経済学者である。ローヌ男爵と呼ばれ、ルソーやモンテスキューと共通する自然法の発想をもつ啓蒙思想家でもあった。日本語ではチュルゴーとも表記される。
父はパリ市長にあたる商人頭を務めた由緒ある法服貴族ミシェル=エティエンヌ・テュルゴーで、家はノルマンディーの旧家であった。きょうだいは4人で、兄の一人エティエンヌ=フランソワは博物学者であった。幼いころから神学の教育を受け、1749年にソルボンヌに入ると、神学のみならず経済、数学、言語、歴史、哲学や自然哲学など幅広く修めて頭角を現した。ラテン語の論文を二編書き、その一つは、人類の精神の歴史的進歩を論じたものである。1750年にはソルボンヌの僧院長に選ばれたが、聖職に就くことを断った。「一生仮面をつけて過ごすことには耐えられない」というのがその理由であった。1751年に父が亡くなると僧籍を離れ、翌年にパリ高等法院の検事総長補佐官の職を買って、国王政府の仕事を始めた。詩作も好み、ウェルギリウスの叙事詩第4巻をラテン語の韻律に倣った詩に翻訳して、ヴォルテールに称賛された。
1750年代にはグラフィニー夫人らのサロンに出入りし、ここでケネーや商務監督官ヴァンサン・ド・グルネー、デュ・ポン・ド・ヌムールなどの重農主義者や経済学者と知り合った。1755年と1756年にはグルネーの国内視察旅行に同行した。グルネーの没後は追悼文を書いている。1760年にはスイスにヴォルテールを訪ねて、親友かつ支持者となった。『百科全書』の項目も執筆している。1761年にはリモージュ州の総徴税区長官に任じられ、貧しく重税に苦しむこの地で1774年まで13年間その職にあった。土地調査による公正な課税や、賦役の金納化と道路建設の請負などを進めた。在職中の1766年に『富の形成と分配にかんする諸考察』を書き上げてデュ・ポンに送った。デュ・ポンはこれを自身が編集する雑誌に掲載したが、ケネー派の主張に沿って手を加えたため、テュルゴーは原文どおりの別刷を印刷させた。この書で彼は、重農主義の体系に資本の概念を導入し、剰余と成長を結びつけ、利益率と金利を関連づけて、市場価格と自然価格を区別したとされ、その思想はアダム・スミスに強い影響を与えた。生産の投入比率を可変とし、限界生産性の逓減に初めて思い至った人物でもあるとされる。
1774年5月、ルイ16世の初期の政権で海軍大臣に任命され、8月には財務総監に転じた。デュ・ポンとコンドルセを片腕に、穀物取引の自由化やギルドの廃止を行い、自由主義の立場から財政再建を図った。しかし1775年に小麦が不作となると、「小麦粉戦争」と呼ばれる農民一揆が起こって自由化政策が批判され、特権身分の反対も受けて、1776年5月に辞職した。その後はパリに隠棲して研究に勤しんだが、フランス革命の始まりを見ることなく、1781年に痛風がもとで53歳の生涯を閉じた。生存手段の進歩による社会の4段階発展論の考案者ともされ、狩猟、牧畜、農耕を経て、都市の商業文明に至ると説いた。
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