伝記
ヘルメネギルドは、西ゴート王国の王族で、レオヴィギルド王の長男である。生年は550年とも557年頃とも564年ともいわれ、585年4月13日に没したとされる。当時イベリア半島で支配的だったアリウス派の教育を受けて育ったが(ヒスパノ・ローマ人はカトリックだった)、カトリックへの改宗が父との対立を生み、父に反乱を起こして捕らえられ、命を落とした。母は王の最初の妻で、のちの年代記作者はテオドシアという名でヒスパノ・ローマ人だったとする。弟にレカレド1世がおり、父の共同統治者だったリウヴァ1世は伯父にあたる。
ビクラルのヨハネスによれば、573年に父王は息子のヘルメネギルドとレカレドを王位に関与させ、579年にヘルメネギルドは、アウストラシア王シギベルト1世の娘イングンデを妃に迎えた。イングンデはカトリック教徒で、レオヴィギルドの後妻でヘルメネギルドの継母にあたるゴイスインタから信仰を捨てるよう圧力を受けたが、固く信仰を守った。同じ579年、レオヴィギルドは属州の一部を与えて治めさせたが、ヘルメネギルドはセビリャで父に反旗をひるがえし、ほかの町や砦もこれに加わったという。
反乱の動機については、記述が分かれる。ヨハネスはこれを、継母ゴイスインタの派閥に属したことによる「暴君的な家の争い」とし、宗教には触れない。これに対しトゥールのグレゴリウスは、妃イングンデが夫をカトリックに改宗させたと語る。ヘルメネギルドはカトリックの名ヨハネスを名乗ったともいう。親族はアリウス派に戻るよう求めたが、彼は拒んだ。レアンデルスの影響もあったとされる。580年にレオヴィギルドがトレドでアリウス派司教の会議を開いたことは、反乱に宗教面があった手がかりとされ、教皇グレゴリウス1世も『対話録』で改宗に触れているため、改宗は史実とみてよいとされる。
彼は東ローマ帝国に支援を求めたが、反応はなかった。グレゴリウスは、スエビ王ミロが彼の同盟者で、オッセト城に兵三百を置いてレオヴィギルドを疲れさせようとしたが、城は破られて焼かれ、ミロは王に忠誠を誓わされたとも語る。レオヴィギルドは東ローマの指揮官に金を渡して支援させまいとし、父と戦いに出たヘルメネギルドは見捨てられて教会へ逃げ込んだ。父は聖域を侵さず、レカレドを遣わして和解を勧め、赦すと伝えた。ヘルメネギルドは降伏したが、陣営に着くと衣を奪われ、貧しい身なりを着せられた。トレドに着くと、従者を一人だけ残して全員を取り上げられ、追放された。イングンデは幼い息子アタナギルドを連れて東ローマの町へ逃れ、引き渡しの要請も拒まれた。コンスタンティノープルへ向かう途中、アフリカで亡くなったとされ、アタナギルドは宮廷で育てられた。祖母ブルンヒルドは書簡を送って取り戻そうとしたが、実現しなかった。
ヘルメネギルドはタラゴナかトレドに幽閉され、セビリャの塔にいたとも伝わる。復活祭のころ、アリウス派の聖職者が訪れたが、彼は異端の聖職者のミサも、その手からの聖体拝領も断固として拒んだ。レオヴィギルドは死刑を宣告し、彼は処刑された。ヨハネスは、585年にタラゴナでシスベルトという者に殺されたと記す。カトリックの殉教者として1585年に列聖されたとされ、改宗者の守護聖人とされる。聖名祝日は4月14日とも13日ともされる。ゴート王国の外の史家はこの反乱を、のちのレカレド王の改宗に至る前史として特筆したが、国内の史料はほとんど注目していない。
同じ年に亡くなった人物
- レオヴィギルド (586年)
同じ地域に関係する人物
- ネウス・カタラー (2019年没)
- タラゴナのフルクトゥオソ (259年没)
- Ricardo Maria Carles Gordo (2013年没)
- ホセ・フンコサ (2003年没)
- ビガス・ルナ (2013年没)