伝記
初代チャタム伯爵ウィリアム・ピットは、イギリスの政治家・貴族である。1708年11月15日に生まれ、1778年5月11日に没した。小ピットと区別して「大ピット」と通称される。七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカ、西インド諸島でフランスの勢力を駆逐して、大英帝国の基礎を築いたと評価される。
1708年、庶民院議員ロバート・ピットと後妻ハリエットの子として、ロンドンのウェストミンスターに生まれた。大地主の家柄で、祖父のトマスはマドラス知事を務め、フランスの摂政オルレアン公にダイヤモンドを売って13万5千ポンドの利益を上げたことで知られる。イートン校を経てオックスフォード大学トリニティ・カレッジとオランダのユトレヒト大学で学び、卒業後は陸軍の騎兵連隊に入ったが、議会での処女演説の前の1736年に退役した。テンプル家やグレンヴィル家との縁故で政界を目指し、1735年にホイッグ党の庶民院議員に当選した。
当時はウォルポール首相のもとでホイッグ党の一党優位が築かれていたが、ピットは若手のタカ派議員として首相の「軟弱外交」を批判し、庶民院で影響力を広げた。皇太子フレデリックに接近し、1737年から1745年まで寝室宮内官を務めた。ジョージ2世から強硬派として疎まれ、1742年にウォルポールが退陣した後も入閣できなかった。ハノーファー軍をイギリスの負担で維持する政策を「ハノーファー優先」と攻撃している。1744年には、初代マールバラ公の未亡人サラが遺言で、ピットに1万ポンドと地所を遺贈した。サラはウォルポールを毛嫌いし、容赦ない攻撃が爽快だったためというのが表向きの理由であった。
1746年、ペラム首相の求めで陸軍支払長官に就いたが、重要でない官職に不満を抱き、第1次ニューカッスル公爵内閣でも留任しながら政権を批判して、1755年に罷免された。1756年に七年戦争が始まり、緒戦の敗北で内閣が総辞職すると、デヴォンシャー公爵を名目上の首相、ピットを南部担当国務大臣とする事実上の首相とする内閣が成立した。ハノーファー優先策に否定的だったため、1757年4月に国王に罷免されたが、ピットなしでは政権が成り立たず、6月末にニューカッスル公と組んで再入閣した。「今この国を救えるのは私だけだ」と語ったという。
戦争指導では、有能な提督や将軍を能力本位で起用し、欧州大陸では同盟国プロイセンへの資金援助にとどめ、植民地の戦いに力を集中した。その結果、フランス勢力を各地で駆逐することに成功した。しかし1760年に即位したジョージ3世は早期講和を望み、スペインへの宣戦をめぐる論争で国王の寵臣ビュート伯爵に敗れて、1761年10月に辞職した。
野党に回るとグレンヴィル政権の植民地課税に強く反対した。1766年7月に組閣を命じられて首相となり、チャタム伯爵に叙されて貴族院に移ったが、病が深刻になり指導力を発揮できず、内閣は対植民地強硬路線に傾いた。植民地への重い負担に反対して孤立し、1768年10月に辞職した。以後も野党として政権を批判し、1778年5月に没した。平民出身で「偉大なる平民」と呼ばれ、党派を嫌って「愛国首相」を夢見た。ヘスター・グレンヴィルとの間に3男2女をもうけ、次男が小ピットである。
同じ年に亡くなった人物
- Charles De Geer (1778年)
- ジェームズ・ハーグリーブス (1778年没)
- ジャン=ジャック・ルソー (1778年没)
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