HISTORICAL PERSON · 578年没

武帝 (北周)

北周の第3代皇帝で宇文泰の四男。572年に権臣宇文護を誅殺して親政を始め、574年に仏教と道教を廃し、577年に北斉を滅ぼして華北を統一した。578年、突厥親征に向かう途中で病没した。

生涯
578年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

武帝(宇文邕)は、北朝の北周の第3代皇帝である。字は禰羅突。543年に、西魏の実力者宇文泰の四男として生まれ、578年に没した。北周の皇帝五人のうち、血筋を後世に伝えたのは彼だけだとされる。

生まれたのは、宇文泰の当時の本拠地である同州(現在の陝西省渭南の一帯)だった。若いころは親に孝行で、礼儀正しく、聡明だと見られていた。朝廷が危険になったため、父は6年間、彼と兄を将軍李賢に預けて保護と教育を任せたという。554年に西魏の廃帝から、富城公に封じられた。556年に宇文泰が死去し、557年春には従兄の宇文護が西魏の恭帝に迫って兄の宇文覚に帝位を譲らせ、北周が成立した。孝閔帝である。しかし孝閔帝が補佐役で従兄でもある宇文護の専横を排除しようとして廃位、殺害されると、庶長兄の明帝宇文毓が継いだ。明帝は彼を魯公に封じ、重要な事柄について意見を求めた。口数の少ない彼について、明帝は「あまり話さないが、話すことはいつも正しい」と評したという。名君の資質を恐れた宇文護に毒を盛られた明帝は、死が近いと悟り、遺言によって宇文邕を後継者に指名した。こうして彼は即位した。

性格は冷静沈着で深謀遠慮だった。即位当初は政治にあまり関わらず、自分が裁決する場合も他の者の意見を聞いて、その言葉の通りにしていた。宇文護には軍事権に加えて六部すべての権限を正式に与えていた。561年には母の叱奴氏を皇太后とし、562年には陳との平和のため、陳の文帝の弟の陳頊を妻子とともに陳へ返した。宇文護の下で政務は動いたが、その間に自分に忠実な官僚の集団を育てようとしていたようである。外交では、南朝の陳とは友好を結び、東の北斉を攻めることを基本方針とし、突厥と同盟して北斉を攻めることもあった。儒教・仏教・道教についての討論会を何度も開かせ、三教の優劣を競わせた。572年、地方から長安に戻った宇文護を誅殺して親政を始めた。

親政後の574年には仏教と道教をともに廃止した。寺院を壊して財産を没収し、僧侶を還俗させて税を取り、財政の改善を狙ったのである。一方で、両教の研究機関として通道観を置き、120名の学士を選んだ。また573年に陳が北斉の江北九郡を奪ったのを見て、北斉に奪還する力はないと判断し、575年に本格的な攻撃を始めた。576年に平陽と晋陽を奪い、577年には都の鄴を包囲した。北斉軍は戦意に乏しく、後主高緯らは逃げようとしたが、間もなく青州で捕らえられた。北斉は滅び、北魏の東西分裂以来四十数年ぶりに華北が統一された。武帝は北斉の旧皇族や臣下に寛大に接し、最後まで北斉に忠実だった者は厚遇し、李徳林は法律制度の整備に重用した。旧北斉領でも仏道二教の廃止を断行した。

578年、彭城で陳軍を破って呉明徹を捕らえ、懐徳公に封じて厚遇した。同年、突厥への親征を企てたが、出発後に病にかかり、間もなく崩御した。享年36(満34歳)。長安の郊外に葬られた墓は1990年代に盗掘されたが、のちに緊急発掘が行われ、副葬品は北斉の皇帝より質素だった。2024年の遺骨のDNA解析で顔かたちの復元図が公開され、脳卒中で死んだ可能性が指摘された。後継の宣帝の下で北周は衰え、581年に楊堅が隋を建てた。男系の子孫は隋の文帝によって絶たれたが、娘の清都公主の血筋は唐の時代まで続いた。死後には、廃仏の報いで地獄の責め苦を受けているという仏教説話が広まり、道教側では彼を道教の外護者とする説が行われた。

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