伝記
清弁(しょうべん)は、6世紀のインド仏教、中観派の学者である。サンスクリット名はバーヴィヴェーカで、バーヴァヴィヴェーカ、バヴィヤなどとも呼ばれる。生没年は490年ごろから570年ごろとされ、500年ごろから570年ごろとする説明もある。生涯の詳しい事情ははっきりしていない。名の呼び方にも揺れがあり、江島恵教は、月称の『プラサンナパダー』のネパール系写本12本を調べ、中国の諸資料での呼称も検討したうえで、インドでの呼称は「バーヴィヴェーカ」が正しい形だとしている。玄奘の音写「婆毘吠伽」や、『般若灯論釈』の著者名の訳「分別明」も、その検討の材料となった。なお、後世にはバーヴァヴィヴェーカという名の別の著者がおり、現代の研究者はこれを二世と呼ぶことがある。
最も早い記録は7世紀の玄奘の『大唐西域記』である。それによると、清弁は南インド(アーンドラ・プラデーシュ)出身の6世紀の学者で、北へ旅して唯識派の論師ダルマパーラ(護法)と論争しようとしたが、護法は会おうとしなかったという。当時は、大乗仏教が力強く自覚的な知的勢力として台頭する一方、十八部派などの初期の仏教伝統がこれに対抗していた、創造性と動揺に満ちた時代だった。研究者のエッケルは、清弁もこの時代に各地を巡って論敵と討論した遍歴の学者の一人だったかもしれないと述べている。当時の公開討論は重大な意味をもち、僧院の生活の中心にあって、討論に臨席する王からの援助を左右することもあった。有力な論者は相手の教義にも通じていなければならず、この必要が、清弁の著した諸学派の学説を整理した書物にも表れているとされる。
学説の面では、清弁は唯識派の陳那(ディグナーガ)の影響を受けた。龍樹の『中論』に表れる空の思想を、論理学的な推論式によって積極的に論証するという方法を確立したのである。それまでの中観派の著者と異なり、仏教論理学の量の論証を取り入れ、あらゆる事物に自性がなく、その真の姿が空であることを示そうとした。形式的な三段論法を中観の解説に用いた最初期の論理学者の一人ともされる。研究者クヴァルネーシュトレムによれば、中観派が唯識派に吸収されたり影を薄くされたりする危険にあり、バラモン教系の諸哲学からの圧力も受けていたため、清弁は陳那らが整えた論理の道具を用いて中観哲学を当時の要請に合わせたという。
清弁は、相手の説の矛盾を示すだけで自らは主張を立てない帰謬の議論では、論争を決着させるには足りないと考えた。これに独立した命題を加え、ときに正式な推論式の形で示すべきだとした。龍樹自身は帰謬の論法にしか頼らなかったが、注釈者には、その含意と論理的帰結を明らかにする責任があると考えたのである。研究者ヘイズも、清弁は中観派の者にも主張があり、すべての事物が自ら独立してもつ本性を欠くという確信を示し、守る用意があることを示そうと努めたと述べている。こうして彼は、龍樹の先の注釈者仏護が含意を十分に引き出さず、適切な推論式を作らなかったと批判した。
主な著作に、論理学的な推論式で空を論証できることを明らかにし他学派の説を批判する『中観心論』、その自注『思択炎』、『中論』の注釈書『般若灯論』、空思想の概説書『大乗掌珍論』がある。ただしその論理学的方法は、のちに7世紀の月称によって批判された。チベット仏教の教学では、この批判をもって中観派が自立論証派(スヴァータントリカ)と帰謬論証派(プラーサンギカ)に分裂したとし、清弁を前者の祖と見る。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス・マララス (578年)
- 武帝 (北周) (578年没)
- Wuffa of East Anglia (578年)
- クロンファートのブレンダン (578年没)
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