伝記
クロード=アドリアン・エルヴェシウスは、1715年1月26日にパリで生まれ、1771年12月26日にパリで没した18世紀フランスの哲学者、啓蒙思想家である。親交のあったドルバックとともに、啓蒙時代の唯物論の代表的作家とされる。「エルベシウス」と表記されることもある。
スイスからパリに移住した医者の家系に生まれ、エルヴェシウスという名は、スイスのラテン語古名ヘルヴェティアをフランス語化したものである。父はルイ15世の王妃マリー・レクザンスカの筆頭侍医であった。曾祖父の代からラテン語化した姓を使い、祖父は吐根をヨーロッパに広めた医師だという。若くして金融の道を志して叔父のもとで学び、暇な時間は詩作に費やした。1738年、23歳のときに王妃の引き立てで徴税請負人の職を得て、1751年まで務めた。もっとも憎まれた職の一つと評されるが、改革案を出して注目されたという。その収入で1743年にペルシュ地方のヴォレ城を購入した。徴税請負人の時代に詩作を始めてヴォルテールの指導を受けたが、やがて哲学へ関心を移した。
1751年、グラフィニー夫人の姪アンヌ=カトリーヌ・リニヴィルと結婚して徴税請負人を辞め、王妃の司厨長の地位を購入した。冬場を除く一年の大半を領地で学問研究に没頭し、領地の住民のために靴下工場を作った。最初の著作『精神論』は、国王の出版許可を得て1758年7月に刊行されたが、直後に反道徳的としてカトリック陣営から強い批判を受け、8月に許可が取り消された。11月にパリ大司教ボーモンに弾劾され、翌年1月には刊行中の『百科全書』などとともにパリ高等法院に告発され、2月に焚書処分の裁定を受けた。この間、エルヴェシウスは自己批判の撤回文を数度公開した。5月にはパリ大学神学部にも断罪された。この騒動のあおりで『百科全書』の出版も継続できなくなり、一連の出版弾圧は「精神論事件」として知られる。それでも1759年5月にはイギリスで英訳が出版され、イギリス思想界にも影響を与えた。のちに渡英してヒュームらと会ったが、これは七年戦争の終結後であった。同じ思想で『人間論』を書いたが、弾圧を恐れて生前は刊行せず、死後に出版された。
大富豪だった彼は自宅にサロンを開き、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、イタリアの経済学者ガリアーニらと交流した。サロンは没後も未亡人が主催し、のちの世代のカバニスやデステュット・ド・トラシーも加わった。アメリカ独立運動への支援を求めて渡仏したフランクリンも客となり、未亡人に求婚している。夫妻には二人の娘があり、いずれも貴族に嫁いだ。
認識論では、コンディヤックの感覚論と当時最新の生理学を踏まえ、人間精神の活動はすべて身体的感性に還元できるとし、霊魂の不死に疑問を投じた。社会道徳の分野では、公共の利益が善の基準だと考え、ベンサムの功利主義やゴドウィンに影響を与えた。徳は他者を考慮する政治的な感情・行動であり、個人の利益を追う感覚から公共の利益への志向は、教育などで道徳的感情を養うことで形成しうるとし、名誉心を媒介に個人的欲望と公共福祉の調和を図る道徳論を主張した。
同じ年に亡くなった人物
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