伝記
マルセル・モースは、1872年5月10日にフランス北東部ヴォージュ県のエピナルで生まれた社会学者、文化人類学者である。ロレーヌの出身で、社会学者エミール・デュルケームの甥にあたる。ボルドー大学に入学し、デュルケーム、アルフレッド・エスピナス、オクターヴ・アムランのもとで哲学を学んだ。またパリの高等研究実習院ではインド宗教史を専攻した。
学者としての歩みは、おじデュルケームの協力者として始まった。アンリ・ユベールとともに『社会学年報』の宗教社会学部門などの編集に携わり、フランス社会学派の開拓に尽くした。1898年にはユベールとの共著で供儀についての論考を、1902年にはデュルケームとの共著で『分類の未開形態』を、同じ年にユベールとの共著で呪術の一般理論についての論考を発表している。1902年から1930年までは高等研究実習院で「非文明民族の宗教史」の講座を担当し、1931年からはコレージュ・ド・フランスの社会学講座に移って1939年まで教えた。この間の1926年から1939年にかけては、リュシアン・レヴィ=ブリュールが創設したパリ大学民族学研究所で民族誌学を講じた。1938年にはトーマス・ハクスリー記念賞を受けている。
モースの代表作は、1924年の『贈与論』である。ポトラッチやクラといった交換体系の分析を通じて、宗教、法、道徳、経済の領域に還元できない「全体的社会的事実」という概念を打ち出し、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学に大きな影響を与えた。「身体技法」についての論は今日なお社会学的な身体論の基本文献とされ、マナなどの概念を通して呪術についても論じた。「原始的な民族」とされる人々の宗教社会学や知識社会学の研究を、デュルケームを踏襲して進めた学者であった。
政治的にはジャン・ジョレスの影響を受けた社会主義者で、マルクス主義のような暴力革命を否定し、国際主義と階級闘争の理論を批判して、社会主義的な組織の形成には教条主義の一掃が必要だと主張した。1924年の論文「ボリシェヴィズムの社会学的評価」では、ロシア革命を社会主義の立場から批判している。それによれば、ロシア革命は戦争による荒廃と体制の瓦解というこの上なく悪い条件から意図せずに生じたもので、少数者によって押しつけられた体制は、国民が望んだ体制のような価値をもたない。革命政府が対外債務の履行を拒み、外国人の資産を没収したことは経済封鎖と国際的な排斥を招き、農村革命も農民に土地を分け合うにまかせただけの個人主義的な政策で、のちの厳しい徴発がロシア飢饉につながったとも述べた。さらに、市場の自由は経済生活に欠かせず、職業集団や協同組合などの中間集団を尊重して育てることが社会主義への移行期には重要であるのに、ソヴィエトはそれらを破壊したと論じた。暴力で権力を奪い、暴力で行使する共産主義を誤りとし、史的唯物論が社会的事象の一定の系列にだけ特権的な重要性を置くことも詭弁だと退けた。
晩年の1950年2月10日に世を去った。没後も論文集『社会学と人類学』が刊行され、「贈与論」「呪術論」「身体技法論」などが収められた。日本でも『贈与論』をはじめ複数の翻訳が出されている。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード・アーサー・ミルン (1950年没)
- ヒューバート・スティーブンス (1950年没)
- アンリ・ピティエ (1950年没)
- 任弼時 (1950年没)
- エドガー・ライス・バローズ (1950年没)
同じ地域に関係する人物
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- Marie Boivin (1841年没)
- ルイ12世 (フランス王) (1515年没)
- Mike Brant (1975年没)
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