HISTORICAL PERSON · 1770年没

ジュゼッペ・タルティーニ

イタリア・バロックの作曲家でヴァイオリン奏者。パドヴァ大学で法律を学び、フェンシングの名手でもあった。

生涯
1770年没
死亡地
イタリア共和国(パドヴァ県 / パドヴァ)
出生地
スロベニア共和国(ピラン)
出典
世界地図
イタリア共和国(パドヴァ県)

伝記

ジュゼッペ・タルティーニは、イタリアのバロック音楽の作曲家・ヴァイオリニストである。1692年4月8日、当時ヴェネツィア共和国領だったイストリア半島のピラーノ(現在のスロベニアのピラン)に生まれた。母はスロヴェニア系、父はヴェネツィア人で、塩の商いと土地管理を営んでいた。四人兄弟の次男で、両親は彼をフランシスコ会の修道士にしようと考えていたらしく、1704年に12歳でカポディストリアの学寮に入り、基礎的な音楽教育を受けた。ここで終生の友となるアントニオ・ヴァンディーニと知り合っている。

パドヴァ大学で法律を学んだが、勉強はたやすく、暇な時間を熱中したフェンシングに費やし、名手となって、数々の決闘もしたという。パリへ行って剣術の師範になろうとさえ考えていたが、エリザベッタ・プレマゾーレと出会ってその志は変わった。身分が低く年齢差もあったので、父は交際に反対していた。1710年に父が没すると、タルティーニは彼女と結婚した。ところが彼女は、有力な枢機卿の寵愛を受けていた女性で、枢機卿はタルティーニに誘拐の罪を押しつけた。身の危険を感じた彼はパドヴァを離れ、巡礼者に変装してローマへ逃れ、さまよったのち、アッシジの聖フランシスコ修道院に身を寄せて訴追を逃れた。この間に、学校時代から離れていたヴァイオリンの演奏に戻り、修道院のオルガン奏者であるチェルノホルスキーから音楽の手ほどきを受けた。この静かな年月の間に、気性は軽薄で喧嘩っ早いものから、穏やかで謙虚なものに変わったとされる。

1714年にはアンコーナに移り、劇場でヴァイオリン奏者として働いた。1716年、ヴェネツィアの演奏会でフランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの演奏を聴いて強い印象を受け、自分の技量に不満を抱き、アンコーナに引きこもって、とくに運弓の練習に励んだという逸話がある。腕は大きく上達し、1721年にはパドヴァのイル・サント礼拝堂のカペルマイスターに、他の団体で演奏してもよいという契約つきで任命された。1723年にはヴァンディーニとともにプラハへ赴き、ボヘミア王の戴冠の祝祭に参加して、フックスらと知り合った。そのままプラハにとどまり、貴族の家に仕えたが、健康を損ねて1726年にイタリアへ戻り、パドヴァに腰を据えた。

1720年代後半にはヴァイオリン教室を始め、「諸国民の学校」と呼ばれ、ヨーロッパ中から学生を集めた。弟子にはピエトロ・ナルディーニや、のちにアントニオ・サリエリにヴァイオリンを教えたフランチェスコ・サリエリがいる。しだいに和声と音響学の理論に興味を持ち、1750年以降は生涯にわたって多くの学術論文を発表した。二つの音を同時に鳴らしたとき聞こえる第三の音、いわゆる差音の発見者とされ、1754年に論文で公表している。

最も有名な作品は、ヴァイオリン・ソナタ《悪魔のトリル》である。「自分のベッドの足元で悪魔がヴァイオリンを弾いている」という夢に着想を得て、アッシジ滞在中に書いたといわれてきたが、今日の研究では1740年代後半以降の作とする説が有力である。作品はほぼ全てがヴァイオリン協奏曲とソナタで、オペラや教会音楽は作曲していない。作品に日付を記さず、演奏後にも手を加えたため、成立時期の特定が難しい。1770年2月26日に没した。

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