伝記
陳霸先は、南朝陳の初代皇帝である。字は興国、幼名は法生といい、503年、梁の初代皇帝である武帝の治世の第2年に生まれ、559年に没した。呉興郡長城県(現在の浙江省湖州市長興県)の人で、「梁上の君子」の故事で知られる後漢の陳寔の末裔を称した。祖先は代々潁川郡に住んでいたが、西晋末の永嘉の乱で南へ移り、東晋の咸和年間の土断によって長城県が正式な本籍地となったという。父は陳文讃、母は董氏で、祖父の陳道巨をはじめ、先祖には晋や南朝の朝廷で重きをなした者もいた。系譜では、陳寔の玄孫にあたる陳準が西晋の恵帝の時代に太尉を務めた人物で、300年の末に没したとされ、その流れをひくと伝えられる。身長は七尺五寸、額が隆起した日角龍顔で、手を伸ばせば膝を過ぎたと伝えられる。
若いころは大志を抱き、家産の切り盛りには関心を持たなかったとされる。成長すると兵法を学び、さまざまな武芸を身につけた。最初の妻は同郡の銭仲方の娘で、早くに亡くなり、のちに同郡の章要児を迎えた。章要児とのあいだには陳昌が生まれている。陳昌より前に五人の男子がいたが、名が残る長男の陳克を含めて早世したらしく、母は分からない。530年代末、呉興郡の太守だった新渝侯蕭映が彼を見て感心し、540年ごろ蕭映が広州の刺史になると幕僚に招いて、さらに代理の郡太守とした。
541年、交州で蕭諮の苛政に不満を抱いた人々が李賁を指導者として反乱を起こした。討伐に向かった孫冏と盧子雄は敗れ、蕭諮の讒言によって自害を命じられた。盧子雄の弟たちが仇を討とうと広州の城を攻めると、蕭映の命を受けた陳霸先がこれを破り、杜天合を討ち取って、杜僧明と周文育を捕らえた。この二人を優れた武人と見て、許して幕僚にとどめている。武帝はその功により彼を新安子に封じ、都へは呼ばなかったものの、画工に肖像を描かせて届けさせた。544年に李賁が帝を称して国号を万春としたのち、蕭映が没すると、陳霸先は柩を都へ送る途中で新任の交州刺史楊瞟らと合流するよう命じられた。彼は楊瞟を説得し、545年に楊瞟の副将として李賁を破って山中へ逃れさせた。548年、李賁が部下に殺されて弟の李天宝が後を継ぎ愛州を攻めたときも、これを破っている。武帝は彼を高要郡の太守に任じ、周辺諸郡の軍を統率させた。
548年に侯景が反乱を起こし、翌年には建康を陥れた。陳霸先は王僧弁と協力して、承聖元年(552年)にこれを討ち、その功で征北将軍に任じられた。承聖3年(554年)に元帝が西魏とその傀儡の後梁の軍に殺されると、王僧弁とともに敬帝蕭方智を擁立した。ところが北斉が閔帝蕭淵明を送り込み、王僧弁がこれを支持したため、両者は対立した。天成元年(555年)、陳霸先は王僧弁を討って閔帝を廃し、敬帝を擁して実権を握った。その後は南下してきた北斉の大軍を破るなどして実力と人望を高め、太平2年(557年)に敬帝へ禅譲を迫って南朝陳を開いた。敬帝は同年のうちに殺されている。
即位後は、かつて討った王僧弁の残党の反攻に苦しみ、その鎮圧に追われて、国政の基盤を固められないまま、559年に世を去った。唯一生き残っていた子の陳昌は北周に留め置かれていたため、帝位は甥の陳蒨(文帝)が継いだ。子女には、次男の陳立、三男の陳権、永世公主、会稽公主らが知られ、正室の銭氏は昭皇后を追贈され、章要児は宣皇后とされた。
同じ年に亡くなった人物
- 文宣帝 (559年没)
- イダ (559年没)
- ムンズィール3世 (559年(推定))
- ノブラのレオンハルト (559年没)
- 陽原王 (559年没)
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