伝記
ジョージ2世は、ハノーヴァー朝第2代のグレートブリテンおよびアイルランド国王であり、ハノーファー選帝侯(在位1727年~1760年)である。1683年11月9日、ドイツのハノーファーに、のちのジョージ1世となるゲオルク・ルートヴィヒと妻ゾフィー・ドロテアの子として生まれた。外国で生まれたイギリス君主としては最後の人物となった。選帝侯としてはゲオルク2世アウグストと呼ばれる。
両親がそれぞれ不倫をした結果、1694年に母ゾフィーが夫を捨てたとして結婚が解消され、母は幽閉されて子供たちと会うことを許されず、以後ジョージと妹は母に会えなかったとされる。ジョージは4歳まで外交と宮廷の共通語であったフランス語しか話さず、その後、家庭教師の一人からドイツ語を学んだ。英語とイタリア語も学び、系図学、軍事史、戦術には特に勤勉に取り組んだ。
1701年の王位継承法と1707年の合同法で王位継承権がプロテスタントに限られると、継承順位が50位以下だった祖母ゾフィーは、一気に2位まで上がった。1705年にジョージはイングランドに帰化し、翌1706年にはガーター勲章を授けられ、ケンブリッジ公爵などのイングランド貴族に叙された。不幸な結婚をした父は、息子が同じ轍を踏まぬよう、結婚が正式に決まる前に許嫁と会わせた。1705年6月、ジョージは偽名を使ってアンスバッハ侯領の夏宮を訪れ、縁談の相手キャロライン・オブ・アーンズバックを匿名で見定めた。駐ハノーファー大使によれば、ジョージは「ほかのだれも考えられないほどに彼女に好意を持った」という。婚約は7月末に成立し、9月2日にキャロラインがハノーファーに着くと、その夜に結婚式が行われた。ジョージは対仏戦争のフランドル戦線に参戦したかったが、父は男子が生まれるまで許さず、1707年2月に長男フレデリック・ルイスが生まれてから、望みが叶った。
1714年にゾフィーとアン女王が相次いで亡くなり、父がジョージ1世として王位を継いだ。ジョージは父の治世の初期、反対派の政治家に味方し、1720年に反対派が与党と和解するまで続いた。1727年に即位すると、ウォルポールの更迭が予想されたが、ウォルポールは王室費80万ポンドを確保して王妃キャロラインに取り入り、王妃も留任を勧めた。ウォルポールが議会で安定多数を握っていたため、国王は留任か政情不安かを選ぶしかなかった。ウォルポールが内政を担い、1730年からは外交も支配した。戴冠式は1727年10月22日にウェストミンスター寺院で行われた。ジョージ1世は遺言状で、孫の代にイギリスとハノーファーを分割して相続させると定めたが、ジョージ2世はそれを握りつぶした。
即位後、国政はグレートブリテン議会が司り、国王が干渉することは少なかった。選帝侯としては、ハノーファーで12回の夏を過ごし、政府の施策を直接指示した。長男フレデリックとは仲が悪く、フレデリックは議会で野党を支持した。オーストリア継承戦争中の1743年にデッティンゲンの戦いに加わり、戦場に立ったイギリス国王としては最後となった。1745年には、ジェームズ老僭王を支持するジャコバイトが、その子チャールズ・エドワードに率いられて最後の蜂起を起こし、国王を廃位しようとしたが失敗した。フレデリックは1751年に早世したため、1760年10月25日に没すると、孫のジョージ3世が王位を継いだ。没後2世紀の間、歴史家は愛妾や短気、粗野を軽蔑したが、その後は再評価が進み、外交政策や軍人の任命への影響が評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- アドリアン・マングラール (1760年没)
- アラウンパヤー (1760年没)
- ジョージ・クリフォード3世 (1760年没)
- ヨハンナ・エリーザベト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ (1760年没)
- フランチェスコ・アラーヤ (1760年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ドリス・レッシング (2013年没)
- ジェームス・ナスミス (1890年没)
- イスカンダル・ミルザー (1969年没)
- フレデリック・グリフィス (1941年没)
- サミュエル・リチャードソン (1761年没)