伝記
ドリス・メイ・レッシングは、1919年10月22日にペルシャ(現イラン)のケルマーンシャーで生まれたイギリスの作家である。父アルフレッド・テイラーは、第一次世界大戦に従軍して片足を失い、入院先のロイヤルフリー病院で担当の看護師エミリー・マックヴェイと出会って結婚した。のちに職を求めてペルシャに移り、ペルシア帝国銀行に勤めた。ドリスが3歳のときに一家はテヘランに移り、5歳でイギリスへ戻ったが、その半年後の1925年に南ローデシア(現ジンバブエ)で1000エーカーの土地を買って移住し、トウモロコシの栽培を始めた。暮らしは楽ではなかった。
幼いころから本に親しみ、母はイギリスから多くの本を取り寄せてくれた。ソールズベリー(現ハラレ)のカトリック系女学校に入ったが、14歳で退学し、以後は独学を続けた。15歳で家を出てヨハネスブルグやソールズベリー近郊で看護婦やメイドとして働き、雇い主からもらった政治や社会学の本を読み始めた。一度農場に戻って習作を書き、19歳で電話交換手になるとすぐに10歳年上の官吏フランク・ウィスドムと結婚して二人の子をもうけたが、1943年に離婚し、子供とも別れた。人種問題に関心を持ち、亡命ドイツ人のマルクス主義運動に加わり、知り合ったドイツ人移民ゴットフリート・レッシングと1945年に再婚して一男をもうけたが、1949年に離婚している。「レッシング」の姓はこの夫のものである。
1949年に息子とともにイギリスへ渡り、翌1950年、ローデシアを舞台にした最初の著書『草は歌っている』を出版して好評を得た。1952年からは、アフリカで育った少女の内面の成長を描く自伝的な『マーサ・クエスト』を始めとする「暴力の子供たち」の5部作を発表した。1954年に共産党に入党したが、1956年に離党した。原水爆禁止運動にも積極的に参加し、有力な支持者として約20年にわたり情報機関に監視されたという。1962年に、女性の自立や差別など社会問題を題材にした『黄金のノート』を出して一躍名を高め、当時のウーマン・リブ運動の理論的指導者とみなされたが、自身は運動への参加を拒んだ。マーガレット・ドラブルは、この作品が女権拡大運動のバイブルになっており、レッシングがイギリスの女性作家に大きな影響を与えていると述べた。
1974年には最終戦争後のイギリスを描く『生存者の回想』を発表し、1979年からは宇宙の彼方から地球を眺めるSF的な連作「アルゴ座のカノープス」を世に出した。この時期にはジェーン・ソマーズの筆名で中年女性の現実を描く2作も書いている。1980年代にはジンバブエを再訪し、1982年には講演旅行で来日した。1985年の『善良なテロリスト』は絶賛を浴びてブッカー賞候補となった。1986年にはソ連侵攻下のアフガニスタンを訪れ、そのルポを『アフガニスタンの風』にまとめた。南アフリカのアパルトヘイトを非難したため、1956年から1995年まで入国を禁じられた。
長く候補とされた末、2007年にノーベル文学賞を受け、同賞の歴代最高齢の受賞者となった。授賞理由は「女性の経験を描く叙事詩人であり、懐疑と激情、予見力をもって、対立する文明を吟味した」ことであった。授賞式は腰痛のため欠席し、代読された受賞スピーチでは、ジンバブエの学校で本が手に入らない現実と本の重要性を語った。2013年11月17日、94歳で亡くなった。
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