伝記
フェルナンド6世は、1713年9月23日に生まれ、1759年8月10日に没したスペイン国王である。在位は1746年7月9日から没年まで。フェリペ5世と最初の王妃マリア・ルイサ(サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世の娘)の四男で、物事をよく考えてから行動することから、慎重王と呼ばれた。
母は彼が生まれて5か月後に亡くなり、父は7か月後にパルマの王女エリザベッタ・ファルネーゼと再婚した。新しい王妃は自分の子らの将来を第一に考えて、イタリアに彼らの領土を得ることに力を注ぎ、継子には関心が薄かった。宮廷の厳格な儀礼のため、王子たちは父王と直接触れ合う機会もなく、兄ルイスとフェルナンドは、継母や父とフランス語の手紙で連絡を取った。生まれたとき、上には兄のルイスとフェリペ・ペドロがいたが、6歳のときフェリペ・ペドロが亡くなり、ルイスに次ぐ王位継承順位二位となった。1716年8月には、母方の祖父ヴィットーリオ・アメデーオ2世を名付け親として、兄弟とともに正式に洗礼を受けた。1721年には7歳で独立した居室を与えられた。
運命を大きく変えたのは1724年である。1月に父が17歳のルイスに譲位し、ルイス1世となったが、ルイスは8か月後の8月31日に天然痘で急死した。譲位を取り消せないとして、フェルナンドの即位を支持する勢力もカスティーリャの貴族の間にあったが、エリザベッタ・ファルネーゼの素早い動きで阻まれた。父は王妃に説得されて復位し、フェルナンドはアストゥリアス公となった。以後22年間、継母が自分の息子を溺愛したため、フェルナンドは父の治世に政治に参与できなかった。夫妻は宮廷から孤立して暮らし、1733年には、継母の命令により軟禁に近い状態に置かれた。
1746年に父が没すると王位についた。即位後は有能な家臣に恵まれた。内政では税制と財政の改革を進め、海軍を増強し、道路や橋、造船所などのインフラ事業に努めた。文化面では王立サン・フェルナンド美術アカデミーを創設し、天文台を設置して、カストラート歌手のファリネッリを後援した。外交では、親仏派のエンセナーダ侯爵と親英派のカルバハルが激しく争ったが、1754年にカルバハルが没し、エンセナーダが失脚するまで、中立を堅持して、イギリス、フランス、ポルトガルとの関係を改善した。次の首相はアイルランド出身で親英派だったが、中立は続き、七年戦争への参戦も見送った。1753年には教皇ベネディクトゥス14世とコンコルダートを結び、カルロス2世の時代に失われた司教の任命権と聖職者への課税権を取り戻した。治世は平穏で、フリーメイソンを禁じたほか、約9千人に及ぶ人々を巻き込んだロマ人(ジプシー)の一斉拘束は失敗に終わった。
ポルトガル王ジョアン5世の娘バルバラと結婚した。バルバラは素朴な見た目で、フェルナンドは最初ショックを受けたが、二人はすぐ仲良くなった。子はできず、1758年にバルバラが先立つと、フェルナンドは精神を病んで幽閉され、廃人同様の生活を送った。王のいない年とも呼ばれた最後の1年を経て、1759年にビリャビシオーサ・デ・オドンで没し、異母弟のカルロスが王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール・ルイ・モーペルテュイ (1759年没)
- ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム (1759年没)
- カール・ハインリヒ・グラウン (1759年没)
- ジェームズ・ウルフ (1759年没)
- ヨハン・ゴットフリート・ツィン (1759年)
同じ地域に関係する人物
- ホアキン・トゥリーナ (1949年没)
- フェリペ3世 (スペイン王) (1621年没)
- アルフォンソ12世 (スペイン王) (1885年没)
- アントワーヌ・ド・グランヴェル (1586年没)
- フランシスコ・ウンブラル (2007年没)