伝記
スキュラクス(カリュアンダのスキュラクス)は、紀元前6世紀末から前5世紀初めにかけてアケメネス朝に仕えたギリシア人の探検家であり著述家である。生年は分かっておらず、没年は紀元前500年ごろとされる。出身地のカリュアンダは、小アジアのイアソスに近い島にあった小さな都市である。ギリシア人だったとも、カリア人だったともいわれ、カリア人であったとしてもギリシア語に通じ、その言葉で著作を書いた可能性がある。彼について知られることは多くなく、後世の著述家が伝える断片的な情報に頼るほかない。ヘロドトスは彼をイオニア出身の船長と呼んでいる。
ヘロドトスの記述によれば、スキュラクスはダレイオス1世(在位紀元前522〜前486年)の命を受けてインダス川を下り、そこからアラビア半島を回ってスエズに達したという。この話には疑問も多い。物語に出てくるカスパテュロスの町やパクティュイケの地は実在の場所と結びつけられておらず、ガンダーラ付近だとしても、内陸のその地でどのように船団を整えたのかが分からない。さらにインダス川は東へではなく南西へ流れる。このため旅そのものを疑う論者もいた。一方、デイヴィッド・ビヴァルは、カスパテュロスが後の著述家ヘカタイオスではカスパピュロスと書かれ、どちらもペシャワールを指すギリシア語形パスカピュロスの誤記らしいと指摘した。スキュラクスはカーブル川を東へ下り、アトック付近でインダス川と合流したのち南へ向かったと考えられ、川が東へ流れるという記述はヘロドトスかその情報源の誤解とされる。
この遠征は単なる探検ではなく、ダレイオスによる将来の征服に向けた偵察だったとする見方が学者の間にある。オームステッドはこれを「スパイ」の遠征と評した。旅は30か月に及んだ。その後まもなく、ダレイオスはスキュラクスが踏査した地域を新しい州ヒンドゥシュとして帝国に加えたらしい。ギリシア人はこれを「インド」と呼んだ。州の範囲は正確には不明だが、ヘロドトスが砂漠(タール砂漠)の西にあると述べていることから、おおむねシンド、つまりインダス川の中下流域に限られる。ダレイオスはナイル川と紅海を結ぶ運河も完成させ、海上交通が一時期保たれたという。
スキュラクスは旅の記録を著し、『周航記』と題されたとも、ダレイオスに献呈されたともいわれる。この書は失われ、後世の著者による7つの引用が残るだけである。引用からは、単なる航海日誌ではなく、人々や風景、自然環境、おそらく政治事情までを記した書だったことがうかがえる。クラウス・カルトゥネンは、ギリシア語で書かれたなら最初期のギリシア語散文作品のひとつだったと考える。ヘカタイオスはこの書の影響を受け、ヘロドトスもその存在を知っていたが、自分で読んではいなかったかもしれない。
残る引用は奇談めいている。穴居人、一つ目の人々、子を一人しか産まない人々などが語られ、ツェツェスによれば、スキュラクスはこれらを作り話ではなく真実だと主張した。R・D・ミルンズは、現地の人々から聞いた話を善意で受け入れて報告したのだろうと述べる。この書は西方に東方の人々の最初の報告をもたらし、後のギリシア人著述家の手本となった。さらに長く残った功績として、インドの名の由来がある。インダス川流域の人々はペルシア語でヒドゥシュ、ヒンドゥシュと呼ばれ、スキュラクスがイオニア方言で書いたなら語頭のhを発音しないため、これがインドスと変わったと考えられる。ストラボンは彼を「古い著述家」と呼ぶ。スイダスによれば、同時代のミュラサの王ヘラクレイデスの伝記も著したという。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
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