伝記
ヴォーヴナルグ侯爵リュック・ド・クラピエは、フランスのモラリストである。1715年8月6日、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで、貧しい貴族の家に生まれた。幼いころは家のヴォーヴナルグ城で過ごした。生来病弱で、最低限の教育しか受けられず、ラテン語もギリシャ語も学ばなかった。視力にも問題があった。子供のころ、のちの革命家ミラボーの父にあたるミラボー侯爵や、のちに考古学者となるフォリス・ド・サン=ヴァンサンと親しくなり、家を出てからも熱心に手紙を交わした。古代ギリシャの作家プルタルコスの作品を深く敬愛したという。
当時のフランスで、貴族にふさわしい職業とされたのは軍人か聖職者だけであった。17歳か18歳のとき、国王連隊の士官候補生として軍隊に入り、少尉となった。風紀の乱れた軍隊にはなじめなかったが、見習士官の少年二人の教育には打ち込んだ。ポーランド継承戦争では1733年にイタリアへ出征し、1739年に中尉の位に就き、のちに大尉に昇進した。1740年には、およそ9歳年下の同僚の将校ポール・イポリット・エマニュエル・ド・セートルと知り合い、この少年は彼にとって終生の献身の対象となった。二人はボヘミアへの遠征に加わったが、1742年のプラハ包囲戦は同盟国に見捨てられる惨憺たる結果となった。セートルは春に17歳で亡くなった。ヴォーヴナルグは『若き友への忠告』をセートルに宛て、追悼の文も書いたとされる。
プラハ包囲戦はヴォーヴナルグの体を損なった。12月に軍の半数が戦略的な撤退をする際、脚が凍傷にかかり、ナンシーの病院に長くとどまったが、完全には回復しなかった。オーストリア継承戦争のデッティンゲンの戦いにも参加し、帰国後はアラスにいたが、1743年に退役した。同年4月からヴォルテールと文通を始め、友人のミラボー侯爵に励まされて文学に目を向けた。外交官を志して二年間、大臣や国王ルイ15世に請願したが実らず、ヴォルテールの尽力で任命の寸前までいった。しかし天然痘にかかって容貌を損ない、ほとんど失明に近くなり、慢性の咳も残って、断念した。
1745年、パリに居を定め、隠れるように暮らした。付き合いがあったのは、マルモンテルやヴォルテールなど少数の人々であった。病苦と貧窮のうちに文学の道を志し、パリでは下層を含む様々な階級の住民に関心をもって観察した。1746年、匿名で唯一の著書となる『人間精神認識のための序論』を、『省察と箴言』を添えて出版した。ヴォルテールは文体を直した第二版を出すよう強く勧めたが、当時はまったく反響がなかった。1747年5月28日、パリで31歳の若さで亡くなった。
この著作中の「種々の問題に関する省察」と「箴言」の部分が、のちに『省察と箴言』として高く評価された。「偉大な思想は心情より生まれる」という箴言は、彼の思想を端的に表している。ラ・ロシュフコーが人間に不寛容で厭世的なのに対し、恵まれない生涯を送りながら、人間や人生を肯定する楽天的な態度をとった。ルソーやロマン派に影響を与えたと考えられている。古典主義が支配した時代に現れたロマン主義の先駆者とも目され、一世紀後にはショーペンハウアーが彼の言葉を好意的に引用した。
同じ年に亡くなった人物
- ナーディル・シャー (1747年没)
- Patriarch Neophytus VI of Constantinople (1747年没)
- フランチェスコ・ソリメーナ (1747年没)
- ジャン=フェリ・ルベル (1747年没)
- フィリップ・ヨハン・フォン・シュトラーレンベルク (1747年)
同じ地域に関係する人物
- ジュリエット・ドルエ (1883年没)
- フランソワ・ジャコブ (2013年没)
- アンリ・デュティユー (2013年没)
- イザベル・ド・エノー (1190年没)
- Henri Cohen (1930年没)