HISTORICAL PERSON · 1747年没

ナーディル・シャー

アフシャール朝の初代君主。短期間でアナトリア東部からイラン、中央アジア、インドに及ぶ広大な領域を支配し、「ペルシアのナポレオン」とも評される。

生涯
1747年没
死亡地
イラン共和国(ラザヴィー・ホラーサーン州 / クーチャーン)
出生地
イラン共和国(Dastgerd)
出典
世界地図
イラン共和国(ラザヴィー・ホラーサーン州)

伝記

ナーディル・シャーは、アフシャール朝の初代君主(在位1736年から1747年)である。ごく短い期間ではあるが、アナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に収めた。その武勇から、「ペルシアのナポレオン」「第二のアレクサンドロス」と評する歴史家もいる。1688年、サファヴィー朝末期のイラン東部ホラーサーンの、マシュハド北方に生まれた。出自は不明で、テュルク系キルクルー族の族長の子とも、貧しい牧夫の子ともいう。後者の場合、ウズベク人に連れ去られて奴隷として暮らしたのち、アフシャール部族連合のもとへ逃れたと伝えられる。父の死後は貧しい少年時代を送り、薪を拾って市場に運んだとする説もある。のちに、デリー征服から凱旋する途中で生まれた土地に軍を導き、将軍たちに幼いころの窮乏を語って、身分の低い人を軽んじてはならないと説いたという。

1710年代にはアフシャール部族連合を率いてこの地域に勢力を伸ばした。このころ、サファヴィー朝は衰えており、アフガン系のギルザイ部族が1722年にイスファハーンを陥落させ、シャー・スルターン・フサインは退位して、王朝は事実上滅んだ。その子タフマースブ2世は各地を放浪したのちホラーサーンに落ち延びた。ナーディルはこのタフマースブ2世に仕え、勢力を拡大して、1727年にマシュハドを掌握した。1729年のダムガーン会戦でギルザイの首領アシュラフを破り、翌年にはアシュラフを処刑してギルザイ部族を駆逐した。絶大な権力を握り、タフマースブ2世はイスファハーンで即位式を挙げた。

1732年にタフマースブ2世がオスマン帝国との戦いに敗れると、ナーディルはアルメニアとグルジアを割譲して和睦し、タフマースブ2世を追放して、その幼い子アッバース3世を擁立して摂政となった。1735年にはロシアとギャンジャ条約を結んだ。1736年、アッバース3世を退位させて自らシャーとなり、アフシャール朝を開いた。西方ではオスマン帝国に奪われた領域をほぼ回復し、1738年に東方へ転じて、カンダハール、ガズニー、カーブル、ラーホールと進撃した。1739年にはカルナールの戦いでムガル帝国の大軍を破り、デリーを占領した。ここでパシュトゥーン人の武力とインドの巨大な富を得て、1740年には中央アジアのブハラとヒヴァを制圧した。さらに海軍の整備にも取りかかり、1742年にバフレーン、翌年にはオマーンを占領した。

一方で、粗暴で冷酷な面もあったとされる。デリーで約3万人が殺されたとされる虐殺のほか、1740年に主君タフマースブ2世と二人の子を処刑した。1741年に暗殺未遂があると、長子リダー・クリーを盲目にし、それを知った人々を処刑した。1745年前後には、マシュハドの武官や有力者100人あまりを反乱に関わったとして処刑した。軍事以外では、イマーム・アリー・リダー廟を修築してマシュハドを整備し、今日のイラン第二の都市の基礎を築いたといえる。堤防や地下水路などのインフラも多くがこの時期に始まった。

ナーディルへの恐れは増大し、1747年にホラーサーンのクルド人の反乱を鎮圧するための遠征中、アフシャール族の家臣の手で暗殺された。死後、帝国は急速に解体し、アフシャール朝は1796年に孫のシャー・ルフがガージャール朝の祖アーガー・モハンマドに敗れて滅んだ。ドゥッラーニー朝やガージャール朝は、ナーディルのもとで勢力を蓄えており、彼はこの地域の次の時代を用意した人物といえる。

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