HISTORICAL PERSON · 531年没

カワード1世

サーサーン朝の君主。マズダク教を利用して貴族の力を削ごうとして退位・投獄されたが、エフタルの助けで復位した。アミダを攻略して東ローマと戦い、多くの改革に着手して、息子ホスロー1世の完成につなげた。

生涯
531年没
死亡地
—
出生地
イラク共和国(バグダード県 / クテシフォン)
出典
世界地図
イラク共和国(バグダード県)

伝記

カワード1世は、サーサーン朝ペルシア帝国の君主(シャーハーン・シャー)である。在位は488年から496年と、498年または499年から531年で、途中2、3年の退位期間を挟んでいる。ペーローズ1世の子として473年に生まれた。484年、父はバルフ近郊でエフタル軍に敗れて戦死し、軍隊は完全に打ち破られて、遺体も見つからなかった。ホラーサーンの主要都市ニーシャープール、ヘラート、メルヴもエフタルの支配下に置かれた。有力者のスフラらは新軍を編成して侵攻を食い止め、ペーローズ1世の兄弟バラーシュを王に擁立したが、貴族や聖職者に不人気だったバラーシュは4年で退位させられた。このときスフラが推戴したのがカワードで、15歳で即位した。

継いだ帝国は衰えていた。貴族と聖職者が大きな権威をふるい、干ばつと飢饉、エフタルへの敗北で経済も傷んでいた。エフタルは東部諸州の大部分を奪ったうえ莫大な貢納を課し、アルメニアなど西部諸州では反乱が起きていた。若いカワードは最初の5年をスフラの後見の下で過ごし、実権はスフラが握っていた。493年に成年に達したカワードはスフラをシーラーズへ追放したが、それでもスフラは王冠を除くすべてを支配していた。カワードはミフラーン家の有力貴族、レイのシャープールを頼った。シャープールはスフラに敵対する貴族を集めてシーラーズに進軍し、スフラの軍を破ってクテシフォンの監獄に投獄した。スフラは獄中でも影響力が大きすぎるとみなされ、ついに処刑された。この処刑は一部の主要貴族に不快感をもって受け止められ、カワードの立場を悪くした。

次にカワードの目に留まったのが、ゾロアスター教の司祭マズダクの運動である。富や財産の共有を求めるこの運動を、カワードは貴族や聖職者の力を抑える政治的手段として利用したという。ただしマズダクの役割の史実性には疑問があり、同時代の歴史家は運動の背後にいた人物としてカワードの名を挙げるだけで、マズダクには触れていない。496年、カワードは貴族によって退位させられ、兄弟のジャーマースプが王に据えられた。スフラの処刑も廃位の理由の一つとされる。貴族の間ではカワードの処刑案も出たが退けられ、フーゼスターンの監獄に投獄された。投獄中、妻が看守の気を引いて、人目を避けて夫と会える状況をつくり、親友のシヤーウシュが監獄の近くに馬を用意して脱出させる計画を立てたと伝わる。カワードは東方のエフタルの王の領土へ逃れ、その軍事的な協力を得て、498年または499年に王位に復した。

復位後は財政が破綻していたため、東ローマ皇帝アナスタシウス1世に補助金を求めたが、拒まれた。そこで東ローマ領に侵攻し、アナスタシア戦争を始めた。まずテオドシオポリス(現在のエルズルム)を攻略し、三か月に及ぶ包囲戦の末にアミダ(現在のディヤルバクル)を占領した。506年に和平が結ばれ、アミダの返還と引き換えに、コーカサスの防御施設の維持のための補助金が東ローマからカワードに支払われることになった。かつての支援者エフタルとも長く戦い、513年までにホラーサーンの領域を取り戻した。

528年、東ローマが息子ホスローを後継者と認めることを拒んだことなどから、再び戦争となった。ペルシア軍はダラの戦いなどで顕著な損失を被り、戦線は大部分で決着がつかず、双方が大きな損失を出した。531年、カワードは遠征の最中に病没した。カワードが取り組んだ帝国の再編成と数々の改革は、息子で後継者のホスロー1世によって完成を見たとされ、帝国は東ローマに匹敵する強大さを取り戻して継承された。

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