HISTORICAL PERSON · 紀元前 6年没

金蛙王

高句麗建国神話に現れる伝説上の人物で、扶余王解夫婁の子、東明聖王(朱蒙)の父。『三國史記』では、金色の蛙の姿で見つかって太子となったと語られる。

生涯
紀元前 6年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

金蛙王は、高句麗の建国神話に登場する東扶余の王であり、解夫婁の後を継いだ伝説上の人物である。名はクムワと読まれ、金色の蛙を意味する。金色の巻貝に結びつける伝承もある。紀元前四八年から前七年ごろに東扶余を治めたとされるが、その誕生は、人間の王子が生まれるという通常の物語とは異なる。解夫婁は年老いても世継ぎを得られず、後継者を求めていた。ある日、鯤淵の池の近くを進んでいると、王の乗った馬が大きな岩の前で止まり、涙を流した。不思議に思った王が岩を動かさせると、その下に金色の蛙のような姿をした男の子がいたという。

解夫婁はこの子を天から授かった後継者と受け止め、宮殿へ連れ帰って金蛙と名づけ、太子に立てた。やがて宰相の阿蘭弗が、天の神の命令を受けたと王に告げた。その言葉によれば、天の神の子孫がこの土地に国を築くので、解夫婁はそこを離れるべきであり、東の海に近い迦葉原へ都を移すのがよいという。迦葉原は五穀がよく実る土地とされた。王はこの進言を受け入れて都を移し、国を東扶余と呼んだ。解夫婁が去った元の土地には、天帝の子を自称する解慕漱が現れて王となり、北扶余と呼ばれたという。金蛙は解夫婁の死後、東扶余の王位を継いだ。

金蛙は太白山の南にある優渤水のほとりで、柳花という女性に出会い、宮殿へ迎え入れた。柳花は河の神である河伯の娘とされ、解慕漱との関係のために両親の怒りを買い、追放されていたという。宮殿に入った柳花は、日の光によって身ごもり、大きな卵を産んだ。金蛙は卵を動物に与えさせたが、犬も豚も食べようとはしなかった。道に置いて馬や牛に踏ませようとしても、動物たちは卵を避けた。野に捨てると鳥が翼で覆い、獣も温めたとされる。王が自ら壊そうとしても壊せず、ついに柳花へ返した。柳花が卵を布で包み、暖かい場所に置いておくと、中から男の子が生まれた。この子が、後に高句麗を建てる朱蒙である。

朱蒙は成長すると弓術などで優れた力を示し、金蛙の息子たちに妬まれるようになった。七歳ですでに成人ほどの力があり、王の七人の息子たちよりも優れていたという。長子の帯素が、人間の子ではないとして殺すよう進言した際には、金蛙はこれを退け、朱蒙に馬の世話を命じたとも伝えられる。一方、金蛙自身も朱蒙を憎み、その命を繰り返し狙ったという別の伝承もある。朱蒙は、狩りの前には弱い馬をよく肥えさせ、優れた馬をあえて痩せさせた。金蛙や王子、廷臣たちは見栄えのよい馬を選び、朱蒙には痩せた馬を残したため、かえって彼がよい馬に乗ることになったという。朱蒙は狩猟でも王子たちに勝り、彼らの敵意はさらに強まった。やがて母の勧めを受けて国外へ逃れ、卒本で高句麗を建てたが、柳花は東扶余に残った。柳花が亡くなると、金蛙は王后になったことのない彼女を、王の母にふさわしい礼で葬った。朱蒙は母を世話してくれたことに感謝し、多くの贈り物を送った。これによって両国の間には平和が戻ったともいわれる。金蛙の死後、東扶余の王位は長子帯素へ受け継がれた。その後、帯素は高句麗の第二代王である瑠璃王の時代に攻撃を仕掛けたが、第三代の大武神王との戦いで命を落としたとされる。

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