伝記
アフメト3世は、オスマン帝国の第23代皇帝(在位1703年~1730年)である。第19代皇帝メフメト4世の子で、第22代皇帝ムスタファ2世の弟にあたる。子にムスタファ3世とアブデュルハミト1世がいる。治世中は列強との戦争に対処する一方、西欧文化の受け入れを奨励し、チューリップ時代と呼ばれる一時代を生んだ。
1673年12月30日、現在のブルガリアのドブリチで、ギュルヌシュ・スルタンとメフメト4世の間に生まれた。生まれたとき、父はポーランド遠征から戻って狩りをしていたという。1675年に兄ムスタファとともに割礼を受け、祝祭は20日間続いたと伝えられる。1679年から家庭教師のもとで歴史、音楽、詩、書道などを学び、特に読書を好んだ。エディルネでの皇子時代には、のちに大宰相となるネヴシェヒルリ・イブラヒムと親しくなった。
1703年、宮廷をエディルネに移していた兄ムスタファ2世に対し、側近政治と給料の未払いに不満を募らせたイェニチェリと、商業の移転を恐れる商工業者が反乱を起こした。兄の側近フェイズッラー・エフェンディが殺害され、兄は退位に追い込まれた。この危機のなかで擁立されて即位し、没収したフェイズッラーの遺産でイェニチェリに給料を支払い、宮廷をイスタンブールへ戻して事態を収拾した。1705年には土地法を改正し、スレイマン1世と同じく立法者と呼ばれた。
大北方戦争では、スウェーデン王カール12世とロシアのピョートル1世の双方から味方になるよう求められたが、当初は同盟を拒み、1709年には属国のクリミア・ハン国に、ロシアへの敵対行為の禁止を命じて中立を保った。しかしポルタヴァで敗れたカール12世が亡命してくると、モルダヴィアのベンデルに迎え入れた。主戦派が対ロシア戦争を主張する中で、大宰相チョルルル・アリ・パシャは戦争に反対し続けたが、1710年に解任され、アフメト3世は宣戦布告した。1711年のプルート川の戦いで勝利し、プルート条約でアゾフを取り戻してロシアを黒海から締め出した。一方、戦闘中にピョートル1世を捕える機会がありながら講和し、逃してしまったことは批判を招いた。のちにカール12世とも確執を深め、1713年にエディルネ近郊へ移している。
1714年からヴェネツィアとペロポネソス半島をめぐって戦い、1716年にオーストリアが参戦すると、バルカンでも戦端が開かれた。大宰相らは、プリンツ・オイゲン率いるオーストリア軍に敗れ、ベオグラードも奪われた。1718年のパッサロヴィッツ条約でペロポネソス半島を得たが、セルビア北部とワラキア西部をオーストリアに譲った。以後は平和政策に転じた。
大宰相イブラヒム・パシャの補佐を受け、ウィーン、パリ、モスクワへ使節を送ってヨーロッパとの修好を進め、西欧の文化を取り入れた。1722年には離宮サーダバード宮殿が造られ、泉亭が建てられ、連日の宴会で華やかな宮廷文化が芽生えた。図書館の建設や活版印刷が広まり、西欧からチューリップを大々的に輸入・栽培したことが、チューリップ時代の名の由来である。しかしこの浪費は政府への反感を招いた。1723年に始まったイラン遠征が長期化して民衆の不満が高まると、1730年にパトロナ・ハリルの乱が起こった。イブラヒム・パシャは処刑され、アフメト3世も退位して、甥のマフムト1世が擁立された。退位後はトプカプ宮殿で幽閉生活を送り、1736年に62歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=バティスト・パテル (1736年没)
- ニコラス・ホークスムア (1736年)
- ガブリエル・ファーレンハイト (1736年没)
- Christian of Saxe-Weissenfels (1736年没)
- アルベルトゥス・セバ (1736年没)
同じ地域に関係する人物
- テオドロス・メトキティス (1332年没)
- グリゴリオス5世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (1821年没)
- ハサン・サカ (1960年没)
- アーリ・パシャ (1871年没)
- ミカエル1世ランガベー (844年没)