伝記
エウァリストゥスは、初期のローマ教皇で、クレメンス1世の後継者とされる人物である。在位は101年頃から108年頃とされるが、古い史料は在位の年代や長さで一致せず、98年頃から105年頃とする説、96年から108年とする説、99年から108年とする説もある。名がギリシャ名であることから、ギリシャ系の出身で、おそらく殉教したのだろうと思われているが、歴史的な裏づけはない。カトリック教会の聖人で、記念日は10月26日とされる。東方正教会や三公会議派の教会でも聖人として崇敬されている。ローマの殉教録では10月27日が祝日とされ、古い殉教者列挙では12月23日の日付も見える。
リヨンのエイレナイオスやローマのヒッポリュトスが用いた2世紀の教皇名簿には、クレメンスの後継者として現れる。リベリウス年表ではアリストゥスという名で記される。ただ、ほとんどの情報は伝説的で、最古の史料は確かなことをほとんど伝えていない。教皇列伝によれば、ギリシャ人で、ベツレヘム出身のユダという名のユダヤ人の子だったという。エジプトのユダヤ人の家に30年に生まれたとする説もある。神の言葉に通じた学識ある人で、説教に熟達していたと語られる。リヨンのエイレナイオスとエウセビオスの証言に基づき、カトリック教会に「聖」の語を与えたのは彼だともいわれる。死後、教皇座は19日間空位だったと伝えられる。
ローマ皇帝トラヤヌスの治世に選ばれ、迫害でタウリカに追放されたクレメンスの後を継いだとされる。クレメンスが追放された97年から、エウァリストゥスを実質的な教皇とみるべきか、クレメンスが殉教した101年からとみるべきかは分からない。カイサリアのエウセビオスは『教会史』で、クレメンスが9年の在任ののち聖務をエウァリストゥスに譲ったと書いている。エウセビオスはまた、彼がトラヤヌス帝の治世に8年間ローマの司教を務めて没したと述べる。使徒ヨハネがその治世中に亡くなり、使徒の時代が終わった可能性が高いともいわれる。
教皇列伝は、彼が市内の司祭たちに初めて称号を割り当て、典礼を助ける7人の助祭を叙階して、ローマの教区を小教区に分けて教会を再編したと伝える。しかしこれは後世の制度を彼に結びつけたもので、根拠がないとされる。枢機卿制度を創始したという伝承もある。ジョン・サリヴァン師の書によると、使徒の伝統に従い、結婚は公に司祭の祝福を受けて行うべきだと定めたという。スペイン語圏の伝えでは、3度の叙階式を司り、司祭17人、助祭2人、司教15人を任じたともいう。アフリカとエジプトの信者に宛てた2通の教令が彼のものとされるが、これらは中世の偽造文書、いわゆる偽イシドルス教令集に含まれる偽作である。ドケタイ派の異端を断罪したという伝承もある。
墓については、教皇列伝がヴァチカンの丘の聖ペトロの墓の近くに葬られたと記す。ナポリの教会に葬られたとする別の伝承もある。殉教については、教皇列伝がトラヤヌス帝のもとでアンティオキアのイグナティオスと同時に殉教の冠を受けたと述べるが、ローマ殉教録では殉教者の称号を付けられていない。1969年に作られたローマの典礼暦では殉教者の列から外された。死の正確な日付も殉教の事実も確かでないためで、117年とする言及があるにすぎない。ローマ典礼の古い奉献文に名が見えないことは、彼に関する情報の乏しさが初期の時代にさかのぼることを示すといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- デケバルス (106年没)
- 殤帝 (漢) (106年没)
- Pope Kedron of Alexandria (106年)
- 和帝 (漢) (106年没)
- ラッベル2世ソテル (106年)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。