HISTORICAL PERSON · 513年没

沈約

南朝宋・斉・梁の3朝に仕えた文学者・政治家。「竟陵八友」の一人で、四声・八病の説を唱えて「永明体」の詩風を生み、『宋書』を編纂した。梁では尚書令となったが、晩年は武帝の不興を買った。

生涯
513年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(浙江省 / 湖州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(浙江省)

伝記

沈約は、中国南朝を代表する文学者・政治家である。字は休文、諡は隠。441年(元嘉18年)に生まれ、513年(天監12年閏3月11日、西暦の5月1日)に没した。本貫は呉興郡武康県で、現在の浙江省湖州市徳清県にあたる。南朝の宋・斉・梁の3朝に仕え、詩の韻律を理論化した人物として、また正史『宋書』の編者として名を残した。

父は沈璞である。沈氏はもともと軍事で頭角を現した江南の豪族であったが、沈約は幼いときに父を孝武帝に殺された。フランス語圏の記述では、父は反乱に関わって453年に処刑されたとされる。そうした境遇のなか、沈約は学問に励んで学識を蓄え、まず宋の時代にさまざまな人物に仕えた。このころ『晋書』を著したが、未完のまま、わずかな断片を除いて失われた。

479年に南朝斉が興ると、のちの皇太子に仕え、さらに竟陵王蕭子良の招きに応じてその文学サロンに加わった。ここで重きをなし、謝朓・王融・蕭衍らとともに「竟陵八友」の一人に数えられる。永明年間(483〜493年)には、詩の韻律と形式美を自覚的に追い求めた「永明体」の主要な担い手となった。この時期は、中国語の四つの声調が詩の韻律に取り入れられた、詩史上の転換点にあたる。のちに沈約が唱えたのは四声(平・上・去・入)と八病の説である。四声の発見は、サンスクリットの影響のもと、仏僧が読誦する経典を通じて伝わったことで説明される。沈約は平・上・去・入の順を、春夏秋冬や東南西北という自然の順序に対応させ、声調の規則を守ることは宇宙の調和にかなう響きを生むのだと説いた。四声は平と仄の二類に分かれ、これが古典詩の韻律の土台となった。さらに、四つの声調で読まれる同音の音節を循環する「紐」という図式に配する構想も描いた。その詩は声調の規則と切り離せず、精緻な形式の探求を特色とする。蕭衍が挙兵すると、沈約はこれに協力した。502年に蕭衍が梁の初代皇帝(武帝)となると尚書令に任じられ、建昌県侯に封ぜられた。南朝の同時代の文壇で最も重きをなしたとされ、評論書『文心雕龍』を世に出そうとした無名の劉勰が、評価を求めてまず沈約に見せたという。沈約はこの劉勰を支持した人物でもある。また、のちに名高い詩文集『文選』を編む皇太子蕭統の師も務めた。

著作は多い。史書では、二十四史の一つである『宋書』を編んだ。これは先行する仕事の編纂が中心だが、460年から479年にかけての部分と一部の志(書)は沈約自身の筆になる。音楽と楽府を扱った志や、謝霊運伝の後論は、音楽史・文学史の貴重な史料とされる。ほかに『斉紀』や、武帝の年代記も著したが、後者は失われた。詩は、恋愛や女性の美を好んで詠みつつ、山水を詠んでも優れていた。形式にこだわる軽薄な詩風だとして、鍾嶸が自らの詩評で上位に置かなかったように批判もあったが、その艶麗な詩は宮体詩の先駆けと見る論者もいる。沈約の家は道教を奉じたが、本人は仏教に深く関心を寄せ、儒者范縝の『神滅論』に反論して、魂は不滅であるという仏教の立場をとった。

晩年は武帝の不興を買い、憂いのうちに世を去ったという。513年のことである。この年は天監12年にあたる。諡は当初「文」とされるはずであったが、武帝の命で「隠」に改められた。文集は『梁書』本伝によれば100巻あったとされるが散逸し、現在伝わるものは明代以降に編み直されたものである。

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