伝記
文同は北宋の文人画家で、字を与可といい、笑笑先生、錦江道人などの号を用いた。1018年または1019年に、四川の梓州永泰県に生まれたとされる。詩文を作り、政治家としても活動したが、とりわけ墨で竹を描く画家として知られた。若いころから竹の絵を描き続け、白い絹やよい紙を見つけると、すぐに筆を取り、制作に没頭したという。1049年、都で行われた科挙に合格して進士となり、その後は地方官などを歴任した。湖州の官職にあったことから、文湖州とも呼ばれる。
同時代の蘇軾と親しく、ともに墨竹画の流派である湖州竹派の祖とされる。竹をはじめ、岩、古木、松、蘭などは、山水とは別に文人たちが墨一色で描いた題材であった。その中でも竹は好まれ、文同の絵も文人の絵画を代表するものとして受け止められた。絵を描く際には香をたき、まず本物の竹を長く観察したという。大きな竹の生える谷に亭を設け、そこから竹を眺めることを楽しみ、描写の技を深めたとも伝わる。形を写す前に内面で竹の姿をとらえる制作のあり方は、心の中にすでに完成した竹があるという「胸有成竹」の成語に結びつけられた。この言葉は、あらかじめ十分な構想を持つことを表す。
文同は一つの手に二本の筆を持ち、遠近の異なる二本の竹を同時に描くことができたという。竹の姿は絵ごとに変わっても、葉や枝などの各部分を全体の中に配置し、自然のあり方と構想の調和を求めた。道教に親しんでいたが、集中を通して対象をとらえ、執着を離れて筆を動かす態度には禅に近い面もあった。年を重ねると、絵を求められても以前ほど容易には応じなくなったとされる。蘇軾と文同による竹の絵の伝統は、後に王庭筠らに受け継がれ、元代にも展開した。
絵だけでなく詩も残しており、詩文集に『丹淵集』がある。キンシコウを少なくとも一匹と、複数のテナガザルを飼い、その優雅な腕渡りの動きを好んだことも詩にうかがえる。飼っていたテナガザルの一匹が死んだときの挽歌も伝わっている。子には文朝光、文葆光、文垂光、文務光がおり、文務光は蘇轍の娘婿となった。1079年、文同は陳州で死去した。文同の名で伝わる墨竹の絵には、国立故宮博物院の『墨竹図』や中国国家博物館の『倒垂竹図』などがある。
同じ年に亡くなった人物
- アデル・ド・フランス (1009-1079) (1079年没)
- ホーコン (スウェーデン王) (1079年)
- シュチェパヌフのスタニスラウス (1079年没)
同じ地域に関係する人物
- 雲門文偃 (949年没)
- フレデリック・タウンゼント・ウォード (1862年没)
- 陸游 (1210年没)
- 端宗 (宋) (1278年没)
- 寧宗 (宋) (1224年没)