伝記
フランソワ・クープランは、バロック時代のフランスの作曲家である。1668年11月10日にパリで生まれ、1733年9月11日に同地で没した。多くの音楽家を輩出したクープラン家の中でも特に有名で、「大クープラン」として知られる。作品の中心は4巻のクラヴサン曲集で、約220曲の小品が27のオルドル(組曲)を構成している。アルマンドやクーラントのような一般的な舞曲よりも、優雅で象徴的な題名を持つ描写的な作品が多くを占める。
父シャルルはルイ・クープランの弟で、1661年からルイの後任としてパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めていた。1662年に理髪師の娘マリ・ゲランと結婚し、フランソワが生まれた。父から音楽教育を受けていたと考えられるが、1679年、フランソワが10歳のときに父は亡くなる。教会評議会は、彼が18歳になったときに父の地位を継ぐことを認め、それまではミシェル=リシャール・ドラランドが代理を務めた。この間の教育は、サン・ジャック・ド・ラ・ブシュリー教会のオルガニストで国王のオルガニストでもあるジャック・トムランが引き受けた。クープランは約束の日を待たずに実質的にサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めるようになり、1685年11月1日には評議会が報酬の支払いを決めている。
1689年にマリ=アンヌ・アッソーと結婚し、1690年には最初の出版作品となる二つのオルガン・ミサの曲集を出した。1693年にはルイ14世によってトムランの後任に選ばれた。国王のオルガニストとして宮廷との結びつきを強め、多くの王家の人々にクラヴサンを教え、王室楽団ではダングルベールの子の代役として常任のクラヴサン奏者も務めた。宮廷作曲家としても活動し、室内楽に加えて王室礼拝堂のための宗教音楽も手がけた。国王の命を受けた3組のヴァーセット集が1703年から1705年にかけて出版されている。1690年代後半ごろからイタリア風のトリオ・ソナタに取り組み、最初のうちはイタリア風の偽名で発表した。
1713年に『クラヴサン曲集第1巻』を出版した。収録作の一部は出版前から手稿譜で出回っていたことが確実で、手持ちの作品をまとめた曲集と考えられる。アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという組曲の定型の配列を守る傾向があるものの、多数の描写的な標題を持つ作品も含む。序文で作曲の際には頭に浮かんださまざまな対象があり、標題が考えたことを示しているので説明は要らないと記したが、現在では意味のよくわからない標題も多い。1716年には演奏論『クラヴサン奏法』を出版した。ごく短い著作ながら、姿勢、幼い生徒への教え方、運指法と装飾音、イタリア音楽とフランス音楽の違いなどを、思いつくままに綴っている。1717年に第2版を出し、おそらく同年に『クラヴサン曲集第2巻』が出た。第2巻の組曲は、第8オルドルを除いて定型がほとんど放棄され、描写的な作品の比重が増している。重要な宗教声楽曲『ルソン・ド・テネブレ』もこのころ出版され、全部で9曲が作曲されたと考えられるが、現存するのは3曲のみである。
1722年に『クラヴサン曲集第3巻』を出版し、『王のコンセール』をその第2部とした。1724年には『趣味の融合』、1725年にはリュリの思い出にささげる賛歌のコンセール、1726年に『諸国の人々』、1728年に通奏低音付きヴィオール曲集と、この時期には室内楽作品を次々に出した。1730年の『クラヴサン曲集第4巻』の序文では、健康が日々弱っていることを記した。その3年後の1733年9月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ビング (初代トリントン子爵) (1733年没)
- ニコラ・クストゥー (1733年)
- ヤコブ・ヘルマン (1733年)
- バーナード・デ・マンデヴィル (1733年没)
- イッポリト・デジデリ (1733年)