HISTORICAL PERSON · 1719年没

ジョン・フラムスティード

イギリスの天文学者。1675年に初代の王室天文官となり、グリニッジ天文台の建設を手がけた。ニュートンと対立し、観測記録の集成『天球図譜』は死後に刊行された。恒星のフラムスティード番号は今も使われる。

生涯
1719年没
死亡地
イギリス連邦(サリー / バーストウ)
出生地
イギリス連邦(Denby)
出典
世界地図
イギリス連邦(サリー)

伝記

ジョン・フラムスティードは、イギリスの天文学者で、初代のイングランド王室天文官である。1646年8月19日にダービシャーのデンビーに生まれ、父ステファン・フラムスティードと最初の妻メアリー・スパッドマンの一人息子であった。父はダービーで麦芽の製造業を営んでいた。地元の自由学校とダービー校で学んだが、当時の教師の多くはピューリタンだった。ラテン語に堅固な知識を身につけ、歴史を愛して、1662年5月に学校を離れた。ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジへの進学は、慢性の病のため数年遅れた。その間は父の仕事を手伝い、算術や分数の使い方を学んで、数学と天文学に強い関心をもった。1662年7月にサクロボスコの『天球論』に魅せられ、9月12日に初めて部分日食を観測した。翌年には日時計に関する書物を読み、天文学に関心をもつ土地の紳士たちと交わった。若くして世を去ったホロックスの仕事に深く感銘を受けたが、これはニュートンも同じだったという。

1665年8月、19歳のときに友人リッチフォードへの贈り物として、天文学の最初の論文を書いた。1670年9月にケンブリッジを訪れてジーザス・カレッジに学生として名を連ねたが、ほとんど在学することはなかった。1674年に2か月滞在し、ニュートンのルーカス講義を聴く機会を得た。助祭に叙されたのち、後援者の兵站部測量長官ジョナス・ムーアに招かれてロンドンに出た。ちょうどその頃、チャールズ2世は月の位置から経度を求める案を聞き、王立委員会を設けて調べさせていた。1675年2月にロンドンに着いたフラムスティードは、委員会の補佐に加わって観測を提供し、案は検討に値しないが、国王は天文台を設けて観測者を置くべきだという結論に寄与した。

1666年と1668年の日食を正確に予言したことが認められたともされる。1675年3月4日に王室天文官に任命され、年俸は100ポンドであった。同年6月に天文台の創設が決まり、フラムスティードは8月10日に礎石を据えた。しかし観測器具は備えつけられず、不足する費用は自らの給料や家庭教師の副業、寄付で補った。器具の設計ではティコ・ブラーエの著作を参考にした。1676年2月に王立協会のフェローとなり、同年7月に天文台へ移った。サリー州バーストーの教区の僧侶も務め、死去までその役と王室天文官を兼ねた。

ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』の出版にあたってフラムスティードの観測記録を求めた。観測記録がニュートンの理論と合わなかったため、ニュートンは送付の遅れと誤った記録を非難した。のちに、地球と月の関係は単純な二つの質点の相互作用では記述できないことが明らかになったとされる。フラムスティードは自らの観測を集成した『天球図譜』の出版を計画したが、ニュートンとハレーは作業の遅れを理由に、古い不正確な記録をもとに1712年に王立協会版を出版した。フラムスティードは裁判を起こして勝訴し、在庫を引き取って天文台で焼却したため、ニュートンとの決裂は決定的となった。自費で刊行を試みたが生前に果たせず、1719年12月31日にグリニッジで没して、バーストーに葬られた。『天球図譜』は1725年から1729年に夫人らによって刊行された。

この図譜の星番号は、各星座で西端の星から順に付けたもので、フラムスティード番号として現在も使われる。オリオン座のベテルギウスはオリオン座58番星と表記される。観測中に天王星を恒星と誤認して、おうし座34番星としたため、この番号は欠番となっている。

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