伝記
ウィリアム・ペンは、イングランド王国の政治家・宗教家で、クエーカーの信徒である。ペンシルベニア植民地の領主として、その建設者となった。1644年、ロンドン塔近くのタワー・ヒルで、同名の海軍軍人ウィリアム・ペンとマーガレットの長男として生まれた。父は清教徒革命で議会派として海軍に入り、第一次英蘭戦争などを戦った有力な軍人である。ペンは少年期にエセックスのチグウェル校で教育を受けたが、1655年に父が護国卿クロムウェルの命で西インド諸島へ遠征し、翌年ジャマイカを占領して帰国した直後に投獄されると、環境が一変した。父は友人のロジャー・ボイルらとともに、アイルランド南部のマンスターへ移った。
アイルランドでクエーカー信徒のトマス・ローの説教を聞き、父とともに感銘を受けたが、このときはまだクエーカーにならなかった。1660年の王政復古で父が騎士に叙され、イングランドへ戻ると、ペンはオックスフォード大学クライスト・チャーチに入った。ところが宗教に疑問を感じ、クエーカーに同調して大学の礼拝を欠席したため、1662年に退学させられた。立身出世を踏み外したと怒った父に鞭打たれ、家からも追い出されたという。父はグランドツアーでペンを改心させようと考え、ペンはクロフォード伯の同行者としてフランスなどを旅した。ソミュールで学び、信教の自由についても考え、サンダーランド伯ロバート・スペンサーと親友になり、共和主義者のアルジャーノン・シドニーとも親交を結んだ。帰国後は1665年からリンカーン法曹院に通い、アイルランドの領地管理も任された。
1667年、22歳でクエーカーになった。アイルランドでローと再会し、「世に打ち勝つ信仰と、世に打ち負かされる信仰がある」と言われて衝撃を受けたことがきっかけだった。集会に参加してコーク市長に逮捕されたこともあり、翌年イングランドへ帰ると父と再び対立して家を去った。三位一体の教えを攻撃する小冊子を書いて1668年12月に投獄され、翌年7月まで7か月ロンドン塔に監禁されたが、獄中で『十字架なければ王冠なし』を執筆し、クエーカーとして生きる覚悟を固めたという。
最も有名なのは、1670年8月にクエーカーの集会で説教して逮捕された3回目の事件である。9月の裁判でペンは、告発状の写しを見る権利を主張し、コモン・ローやマグナ・カルタ、エドワード・コークの著書まで引いて裁判の正当性を問うたが、答えはなく、ロンドン市長の怒りを買って退廷させられた。市長は陪審員に有罪の評決を迫ったが、陪審員は圧力に屈せず、同じ結論を繰り返した。陪審員は市長を不法拘禁で訴えて1671年に勝訴し、陪審制が実質化したと評価される。釈放の1週間後に父を看取ったペンは、1672年にグリエルマと結婚した。
迫害が厳しくなるなか、1680年にチャールズ2世へ手紙を書き、父への借金の代わりにアメリカの土地を求めた。1681年3月4日、国王の特許状が与えられ、ペンはこの地の領主となった。ペンは「森の国」を意味するシルヴァニアと名づけたが、国王が父に敬意を表し、ペンシルベニアに改めた。ペンは憲法の草案づくりに取り組み、信仰の自由、陪審制による公平な裁判、財産権の保障を明記し、軍事にあえて触れずに非武装平和主義も目指した。植民地建設後も、本国で王室や議会と折衝して自治権を守り、アメリカ独立までペン家の領主植民地として存続させる礎を築いた。1718年7月30日に没した。
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