伝記
黒髭として知られるエドワード・ティーチ(あるいはエドワード・サッチ)は、西インド諸島と北アメリカの東海岸周辺で活動したイギリス出身の海賊である。1680年ごろの生まれとされ、1718年11月22日に没した。初期の経歴はほとんど分かっておらず、死亡時の年齢は35歳から40歳と考えられている。姓にはサッチ、ティーチなど綴りのゆれが多く、海賊は血筋の名誉を守るために偽名を使うのが一般的だったため、本名を知る手立てはない。読み書きはほぼ確実にでき、殺害されたときにはカロライナ植民地の主席判事で書記官でもあったトビアス・ナイトの手紙を所持していた。このことから、上流の裕福な家の出かもしれないと推測する著述家もいる。
『海賊史』によれば、スペイン継承戦争の間はジャマイカの私掠船に乗る船乗りであった。1713年のユトレヒト条約の直後にジャマイカから移り、かつての私掠船の仲間とともに海賊となったと推測される。1716年ごろには、ニュープロビデンス島を拠点にした有名な海賊船長ベンジャミン・ホーニゴールドの手下となり、拿捕したスループ船の船長に任じられた。ニュープロビデンスは、フロリダ海峡と大西洋を通る船の多い航路に手の届く位置にあり、港は多くの船を収容できる一方、イギリス海軍の大型船には浅く、海賊を歓迎する場所であった。1717年初頭から、ホーニゴールドとともに本土へ向かって船を襲い、9月には、裕福な家の出身で海賊を始めたばかりのスティード・ボネットと出会った。ボネットの手下たちは船長の指揮に不満をもっていたとされ、ティーチは許可を得てボネットのリベンジ号の指揮権を引き継いだ。
イギリス船まで襲うようになった1717年末、手下たちはホーニゴールドを船長の座から退け、ホーニゴールドは2隻の船とともに海賊を辞めた。ティーチがこの決定にどう関わったかは分かっていない。翌6月にホーニゴールドはウッズ・ロジャーズから王の恩赦を受け、二人は二度と会うことがなかった。1717年11月28日、ティーチの船団はセントビンセント島沖でフランスの大型奴隷船ラ・コンコルド号を襲って降伏させた。彼はこれを「アン女王の復讐号」と改名して40門の大砲を備え、旗艦とした。豊かな黒いあご髭と恐ろしい外見からブラックビアード、つまり黒髭と呼ばれるようになった。12月にスループ船マーガレット号を拿捕した際の船長ボストックの証言が、その容姿を伝える最初の記録で、背の高い引き締まった体格で、とても豊かな黒い髭をしていたという。髭を編んで色つきのリボンを結んだとも伝えられ、外見の与える恐怖の価値をよく理解していたようである。
1718年5月、一味はカロライナ植民地のチャールズタウンの港を封鎖し、人質を取って要求を突きつけた。翌6月にボーフォート近くの砂州でアン女王の復讐号ともう1隻が座礁して放棄され、ボネットも離れて海賊団は大幅に縮小した。ティーチはノースカロライナ総督チャールズ・イーデンの恩赦を受けてバスの町に移ったが、まもなくイーデンの黙認のもとで海賊活動を再開した。これに目をつけたバージニア総督の執拗な捜査の結果、11月22日の激戦でロバート・メイナード海尉の率いる兵士たちに、手下とともに殺害された。
計算高い指導者で、実際には船員の合意を得て命令を下し、捕虜を傷つけたり殺したりした記録はない。後世の創作では典型的な海賊像となった。
同じ年に亡くなった人物
- スティード・ボネット (1718年没)
- Adriaan Reland (1718年)
- ウィリアム・ペン (1718年没)
- ニコラス・ロウ (1718年没)
- ルートヴィヒ・フリードリヒ1世 (1718年)
同じ地域に関係する人物
- キャメロン・タウンゼント (1982年没)
- カレル・フサ (2016年没)
- フロイド・シモンズ (2008年没)
- Marc Freiberger (2005年没)
- ケネス・ノーランド (2010年没)