伝記
ジョン・エヴァレット・ミレイは、1829年6月8日にイングランド南部のサザンプトンで、馬具の製造販売業者の息子として生まれたイギリスの画家である。ラファエル前派の一員に数えられ、フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーと区別するため、ミレイと表記されることが多い。幼いころから優れた画才を示し、才能を確信した両親は、よい教育を与えようと1839年にロンドンへ転居した。11歳のとき、ロイヤル・アカデミー付属美術学校に史上最年少で入学を許され、1846年には16歳の若さで同アカデミーの年次展に入賞した。このころ、同じ学生だったウィリアム・ホルマン・ハントやダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらとともに、創設者レノルズが100年も前に確立した教育方法と、当時の画壇に不満をつのらせていた。
1848年、彼らは「ラファエル前派」を結成した。思想的な影響を与えたのは、美術批評家ジョン・ラスキンで、「芸術は自然に忠実でなければならない」という主張が、彼らの制作のモットーになった。この革新的な画法で描いた最初の作品が『ロレンツォとイザベラ』であり、1850年の『両親の家のキリスト』は痛烈な非難を浴びたが、ロイヤル・アカデミー展に出された『オフィーリア』は非常に高い評価を得た。モデルは、のちにロセッティの妻となるエリザベス・シダルである。1853年にラファエル前派が新聞に攻撃されると、ラスキンはタイムズ紙上で擁護の論陣を張り、感激した彼は礼状を出した。礼状が届いた午後、ラスキンは新妻ユーフィミア(エフィー・グレイ)を伴って彼を訪ねたといわれる。
ラスキンとの結婚生活に耐えられなかったユーフィミアは、ミレイに惹かれ続け、1854年に結婚は実質のないものだったとして婚姻無効の訴えを起こした。当時、妻が夫を捨てることは極めてまれで、彼女の行動は恥ずべきこととして非難された。1855年に二人は結婚したが、彼を寵愛していたヴィクトリア女王は、ユーフィミアの謁見を拒み、以後、彼に肖像画を描かせなかった。1856年に第一子が生まれ、結婚後に8人の子を養うことになった。1857年のアカデミー展に出した作品が、馬が騎士に比べて大きすぎると不評を買い、嘲笑する風刺画まで新聞に載った。離婚後も彼を擁護していたラスキンさえ、単なる失敗ではなく破局だと厳しく非難した。彼は「5シリング硬貨より小さな部分を描くのに丸1日費やすわけにはいかない」と考え、ラファエル前派の厳格な理想から次第に遠ざかった。
1860年に展示した、黒い制服のブラウンシュヴァイク騎兵を描いた作品は好評を博し、失いかけた名声を取り戻した。以後は大衆の好みを意識した作品を描き続けた。1863年には『初めての説教』が最も人気のある作品に選ばれて、正会員に選出され、イギリスに少女画のブームが起こった。孫を描いた代表作『シャボン玉』は新聞に掲載され、のちに石鹸の広告にも使われた。肖像画家としても成功し、ディズレーリやディケンズら著名人が肖像を依頼した。1885年7月16日に準男爵に叙せられ、1896年にはロイヤル・アカデミーの会長に選ばれたが、同年8月13日に没した。死の数日前、女王から何かできることはないかと伝言を受け、彼がユーフィミアの謁見を願うと、聞き入れられた。ユーフィミアも翌年12月に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- オットー・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ (1896年没)
- フレデリック・レイトン (1896年没)
- ジョン・ギボン (将軍) (1896年没)
- セオドア・ロビンソン (1896年没)
- アントーニョ・カルロス・ゴメス (1896年没)
同じ地域に関係する人物
- アリス (グロスター公爵夫人) (2004年没)
- ジェームズ・ミル (1836年没)
- スティーヴ・クラーク (1991年没)
- ポール・ナッシュ (1946年没)
- ウィリアム・タウンゼント・エイトン (1849年没)