伝記
マルクスは、東ローマ帝国の将軍で簒奪者となったバシリスクスと、その妻ゼノニスの子である。475年にカエサルとして歓呼を受け、のちにアウグストゥスに昇格して、父とともに共同皇帝として統治した。476年8月に没した。
背景には、東ローマ皇帝レオ1世(在位457年から474年)の晩年の動きがある。レオは473年に病にかかると、ゼノンとアリアドネの子である孫のレオ2世を10月に皇帝として戴冠させた。レオ1世は474年1月18日に没し、レオ2世が即位した。1月29日にゼノンが共同皇帝として戴冠し、秋にレオ2世が亡くなると、ゼノンが東ローマ唯一の皇帝となった。ゼノンは民衆にも元老院階級にも不人気だった。イサウリア人だったことが一因で、この民族はアルカディウス帝(在位383年から408年)の時代から評判が悪く、ゼノンの統治がイサウリア人の高官登用を進めたことも反感を招いた。
ゼノンの共同皇帝への昇格を支持していたウェリナは、ゼノンが単独の皇帝になると背を向け、ほかの者たちと陰謀を企てた。歴史家の多くは、彼女が愛人のパトリキウスを皇帝に立て、結婚するつもりだったと認めている。支持者には将軍のテオドリック・ストラボンがおり、マルクスの父バシリスクスは、イサウリア人の兄弟イルスとトロコンデス、ウェリナの甥アルマトゥスを仲間に引き入れた。陰謀は軍と元老院の支持を得た。計画が始まった時期は不明で、473年ごろとする説もあれば、ゼノンが単独で権力を握ってからとする説もある。ゼノンは475年1月9日に故郷イサウリアへ逃れた。陰謀を知ったためとも、身の危険があるとウェリナに説かれたためともいわれる。バシリスクスは元老院を説いて自分を皇帝として歓呼させ、ヘブドモン宮殿で戴冠した。バシリスクスはただちにマルクスをカエサルとして戴冠させ、のちに共同皇帝に引き上げた。
しかしバシリスクスは、重税や異端的な教会政策、さらに自然災害もあって、首都で急速に支持を失った。475年から476年にかけて、カルコプラテイア地区で大火が起き、たちまち広がった。イサウリアでゼノンを包囲していたイルスとトロコンデスは、ゼノン側に寝返った。年代記作者テオファネスは、ゼノンが約束を破ったことが原因だとするが、約束の中身は明記されていない。多くの歴史家は、ゼノンが二人に軍司令官の職を約束したと考えるが、テオファネスがその約束を作り上げたのだとして疑う研究者もいる。476年の2月か3月からバシリスクスは民衆を恐れてヘブドモンにとどまった。首都がゼノンの復位を受け入れる用意があるとする大臣たちの手紙も、イルスとトロコンデスに届いていた。イルスはゼノンの弟ロンギヌスを捕らえており、これを交渉の材料にできると見込んだのかもしれない。イルスはゼノンと結び、合流した軍勢で首都へ進んだ。
バシリスクスはアルマトゥスに、トラキアと首都の全軍と宮廷護衛兵を率いて三人を迎え撃たせた。ところがアルマトゥスは、ゼノンが彼を終身の軍司令官にし、息子をカエサルにすると申し出たため、忠誠の誓いに背いた。ゼノンは妨げられることなく進み、476年8月に抵抗を受けずに首都へ入った。マルクスは両親や家族とともに教会に隠れ、ゼノンが処刑しないと誓ってから出てきた。ゼノンは一家をカッパドキアのリムナイへ追放し、水の枯れた貯水槽に幽閉して、飢え死にさせたという。斬首されたとする伝えもある。なお、バシリスクスとマルクスの硬貨は、二人の皇帝を一枚に並べて刻んだ点が珍しい。
同じ年に亡くなった人物
- バシリスクス (476年)
- フラウィウス・オレステス (476年没)
- 献文帝 (476年没)
同じ地域に関係する人物
- マクリヌス (218年没)
- Ariobarzanes III of Cappadocia (紀元前41)
- John Palaiologos (1275年没)
- ロジャー・デルガード (1973年没)
- ルーセル・ド・バイユール (1077年没)