伝記
フラウィウス・オレステスは、西ローマ帝国の貴族・将軍である。476年に没した。最後の西ローマ皇帝とされるロムルス・アウグストゥルスの父であり、475年から476年にかけて、この息子を通じて帝国を支配した。
パンノニア管区の裕福なローマ人貴族の家に生まれたとされる。父は西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世に仕えたタトゥルス、妻はノリクム伯の娘バルバリアである。父については、おそらくゲルマン系の出身で、パウルスという兄弟がいたともされる。パンノニアがフン族のアッティラに譲渡されると、オレステスは一族の所領があるこの地に残り、アッティラに仕えた。書記官となり、「ロガーデス(卓越した人士)」の一人として重用された。ウァレンティニアヌス3世に近侍する父や、岳父ロムルスを通じて西ローマ帝国との連絡役を務め、駐フン大使のような役割も果たしていたようだ。449年には、同じくアッティラに仕えていたエデコとともに、アッティラから東ローマ皇帝テオドシウス2世への特使としてコンスタンティノポリスへ派遣された。また、父や岳父らからなる西ローマ帝国の使節団を迎え入れたことも記録されている。
アッティラの死後はイタリアに戻り、西ローマ帝国の諸皇帝に仕えて軍職を重ね、昇進した。474年にユリウス・ネポスが皇帝グリケリウスを追放して自ら皇帝を名乗ると、オレステスはネポスからパトリキの称号とマギステル・ミリトゥム(軍総司令官)の地位を与えられた。475年にはガリアでの指揮を任され、ネポスから与えられた軍団を率いて出発した。ガリアでは、再び反乱を起こした西ゴート族を破ったとされ、このころ、帝国の実力者リキメルの先例にならって皇帝に背くことを考えたのかもしれないとも指摘される。ところが、オレステスは急に進路を変えてラヴェンナを襲い、8月28日までに占領した。ラヴェンナに皇帝府を置いていたネポスは、戦わずにダルマチアへ逃れた。10月31日、オレステスは息子のロムルスを皇帝として宣言した。ロムルスはまだ14歳ほどで、オレステスがその摂政として実権を握ったという。しかし、この皇帝は東ローマ皇帝ゼノンにも、ゼノンの対立皇帝バシリスクスにも承認されなかった。東では両者が争っていたため、何もできなかったとされる。後にゼノンが勝つと、ネポスの正統性は認めたが、オレステス父子に対しては行動を起こさなかった。
オレステスはネポスを倒す際、傭兵たちにイタリアの3分の1を領地として与えると約束していた。だが財政の窮乏から、ヘルール族やスキリア族の傭兵への土地の分配を拒んだ。不満を抱いた傭兵たちは傭兵隊長オドアケルのもとに集まり、476年8月23日にオドアケルを王と宣言して蜂起した。オレステスはパヴィーアへ逃れ、司教にかくまわれたが、オドアケルは傭兵を率いてパヴィーアを襲い、火を放った。オレステスは逃れ、北イタリアに残る少数の部隊を集めてピアチェンツァに小さな軍を作ったが、寄せ集めの帝国軍はオドアケルの傭兵に太刀打ちできず、8月28日に捕らえられて処刑された。息子のロムルスも数週間のうちにラヴェンナで捕らえられて廃位され、カンパニアに追われたという。
この出来事は、18世紀の歴史家エドワード・ギボンのロマンチックな叙述によって、後の世に大きな意味を与えられた。しかし現代の学問では、ローマ帝国の分裂の過程の重要な一段階ではあっても、それが西ローマ帝国の滅亡そのものを意味したとは考えられていない。一方で、オレステスと息子の敗北は、古代後期から中世初期への移行を画する出来事として用いられている。
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