HISTORICAL PERSON · 2023年没

ジャンルカ・ヴィアッリ

イタリアのサッカー選手・指導者。サンプドリアでマンチーニと名コンビを組み、コッパ・イタリア決勝でミランを破る得点を挙げて初タイトルを獲得した。

生涯
2023年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イタリア共和国(クレモナ)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジャンルカ・ヴィアッリは、1964年7月9日にイタリアのクレモナで生まれ、2023年1月6日に58歳で亡くなった元サッカー選手、サッカー指導者である。イタリア代表で、現役時代のポジションはFWだった。裕福な家庭に5人兄弟の末っ子として生まれ、16歳のときにサッカー選手になる夢を叶えるため学業を放棄して、地元クレモネーゼのユースに入団した。1980-81シーズンにセリエCでデビューし、1982-83シーズンからは子どものころのアイドルだったエミリアーノ・モンドニコ監督の下でプレーして、FWとして徐々に成長した。1983-84シーズンにはセリエBで10得点を挙げ、チームはセリエA昇格を決めた。ユヴェントスが獲得を申し入れたが、本人はすでにサンプドリアと口頭で合意していた。

1984-85シーズンにサンプドリアへ移籍し、ウイングからセンターフォワードとして起用されることも増えた。特にロベルト・マンチーニとは良いコンビネーションを見せた。このシーズンのコッパ・イタリア決勝第2戦ではACミランを破る得点を決め、初のタイトルを獲得した。コッパ・イタリアは1987-88シーズンと1988-89シーズンにも優勝し、1988-89シーズンは大会合計13得点を挙げた。1989-90シーズンの欧州カップウィナーズカップ決勝では2得点を決めて優勝し、1990-91シーズンにはリーグ戦で19ゴールを挙げて得点王となり、スクデット獲得に貢献した。1991-92シーズンはチャンピオンズカップ決勝に進んだが、決定機を逃し、負傷でレナート・ブーゾと交代して、バルセロナに0-1で敗れた。サンプドリアでは公式戦321試合で141得点を記録した。

1992年、当時の世界最高額でユヴェントスへ移籍した。1992-93シーズンの欧州のカップ戦では5得点を挙げて優勝に貢献したが、最初の2年間は度重なる怪我もあり、リーグ戦42試合で10得点にとどまった。マルチェロ・リッピ監督の就任後は、エースストライカーとして活躍した。1994-95シーズンには17ゴールを挙げて自身2度目のスクデットを獲得し、コッパ・イタリアでも優勝に貢献した。1995-96シーズンのチャンピオンズリーグ準決勝のナント戦では2試合で得点に絡み、決勝ではアヤックスをPK戦の末に破って、キャプテンとして優勝を果たした。このときすでに、契約を延長しないことをクラブから告げられていた。

1996-97シーズンにはプレミアリーグのチェルシーへ移り、FAカップの獲得に貢献した。1997-98シーズンには欧州カップウィナーズカップを制し、1998-99シーズンにはプレイングマネージャーに就任した。EFLカップでは3試合で6得点を決め、このシーズンは20試合で10得点を挙げたが、選手としてのキャリアに終止符を打った。

イタリア代表としては1985年11月16日のポーランド戦で初出場した。1986年のワールドカップでは4試合に途中出場して無得点、1988年のヨーロッパ選手権では4試合すべてに先発してスペイン戦で1得点を挙げた。1990年のワールドカップ自国開催大会では、脹脛の負傷とゴシップ報道を抱えてのプレーとなり、3試合に先発した。1992年12月にアリゴ・サッキ監督と衝突し、その後の2度の招集を拒否したが、後にこれを誤りだったと悔いた。引退後は、友人マンチーニが率いる代表チームのコーディネーターを務め、ユーロ2020での優勝を経験した。2019年に膵臓がんの治療のため代表を離れていたが、2023年1月に世を去った。

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