伝記
ティウディミールは、5世紀のゴート人の指導者の一人である。生年は不詳で、474年頃に没した。同時代に東ローマ帝国で活躍したウァラメールやウィデメールとともに「兄弟王」と呼ばれたが、三者の間に直接の血縁があったかどうかは分かっていない。一方で、アマル家のウァンダラリウスの子で、ウィデメールとウァラメールの兄弟だったともされる。妻はカトリック教徒のエレリエヴァ(洗礼名エウセビア)で、子にはテオドリックのほか、のちにヴァンダル王トラサムンドの妃となる娘アマラフリダと、テオディムンドがいたとされる。ティウディミール自身はアリウス派だった。
初めはフン族の王アッティラに従っていたと考えられる。451年にはカタラウヌムの戦いにゴート人の部隊を率いて加わったとされ、453年にアッティラが没すると、フン族の連合体から徐々に離れた。454年のネダオの戦いでかつての支配者であるフン族を破ったともいわれる。遅くとも456年頃までには、ウァラメールやウィデメールとともに東ローマ皇帝マルキアヌスに雇われ、パンノニアに定着した。そこでは王国が三つの地区に分けられ、兄弟がそれぞれ一つずつを支配した。ただし、王の称号を持っていたのはウァラメールだけだったとされる。ティウディミールはバラトン湖周辺のゴート人を握っていた。この地域は、ショモジ地方の中南部からクロアチア北東部にあたるとする説がある。
459年から461年か462年にかけて、毎年の補助金が支払われないことをめぐって東ローマ帝国との間に争いが起きた。戦いが終わると、ティウディミールの子テオドリックが人質としてコンスタンティノープルへ送られた。その後ティウディミールは侵入してきたスエビ人の一団を破り、その王フニムンドを捕らえたが、フニムンドはゲルマン風に養子とされて解放された。しかし解放後のフニムンドはスキリ人の攻撃をゴート人に仕向け、465年頃にこの戦いでウァラメールが命を落とした。ティウディミールは王として迎えられた。
469年、パンノニアで地歩を固めつつあったゴート人に、フン族やサルマタイ人らの連合が戦争を仕掛けてきた。背景には、皇帝レオ1世とアラン人の将軍アスパルの権力争いがあったと考えられる。両軍はボリア川で衝突し、開戦の直前にウァラメールが落馬して死ぬという出来事があったにもかかわらず、戦いはゴート人の勝利に終わった。ただし、この戦いでゴート人が敗れたとみる説もある。この勝利でティウディミールは王として宣言され、レオ1世は力でゴート人を排除することを断念し、懐柔へと方針を改めた。レオ1世は人質にしていたテオドリックを解放し、テオドリックはウァラメールの後任としてスラヴォニアの守備隊に配属された。
472年頃、テオドリックは父のもとへ戻されたともいわれる。471年、アスパルが殺害されると、テオドリック・ストラボが473年に「全ゴート人にたいする王」として推戴された。テオドリックは皇帝側についたが、戦争で荒れた土地に困っていたティウディミールは、473年に弟のウィデメールをイタリアへ向かわせ、自らは子とともに東ローマ領へ入ったとされる。イリュリア道を攻めてデュッラキオンとナイッソスを奪い、さらにゴート人を率いてテッサロニキを包囲し、将校を威圧して、キロスへの定住を認めさせた。しかし同年または翌474年、得たばかりのキロスで病没した。
同じ年に亡くなった人物
- ストバイオス (470年(推定))
- Euphrosyne of Alexandria (470年)
- Salvian (470年)
- ゼノニス (470年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ピリッポス3世 (紀元前317年没)
- A.H.M.ジョーンズ (1970年没)
- アガトーン (紀元前400年没)
- Elder Paisios of Mount Athos (1994年没)
- エウリュディケ2世 (紀元前317年没)