伝記
テオドリック2世は、453年から466年まで在位した西ゴート王である。生年は不詳とされるが、422年ごろの生まれともいわれる。トゥールーズを都とし、衰退する西ローマ帝国と向き合いながら勢力を広げた。
453年、兄のトリスムンドに代わって王位についた。兄の治世は短く、詳しいことは分かっていないが、テオドリックが兄を殺害したことだけは知られている。実弟フレデリックと謀り、ローマの将軍アエティウスに扇動されたともいわれる。当時の西ローマ皇帝はウァレンティニアヌス3世で、テオドリックは国境線を確定するため皇帝と同盟した。一方、ローマとの境界では戦いを繰り返した。また、農村を追われてゲリラ化し、貧困層などで構成されたバガウダエとも戦った。453年から454年にかけて、皇帝が遠征軍を組織させたことでバガウダエの敵意は皇帝に向かったが、ローマと西ゴートの連合軍は、数か月で彼らを粉砕した。
454年にアエティウスが殺され、455年3月にウァレンティニアヌス3世も暗殺された。皇帝となったペトロニウス・マクシムスは、5月にヴァンダル族がローマを襲った際、怒った群衆に殺された。このとき、トゥールーズの宮廷に外交使節として滞在していたガリア出身の元老院議員アウィトゥスを、テオドリックは皇帝に推した。若いころ師と仰いだ間柄で、非常に良好な関係にあったという。テオドリックは大勢の戦士を送って友を支えた。当初は忠実なローマの同盟者として、西ゴートの戦士はしばしばローマ軍の補助兵力として動いた。
456年、テオドリックはスエビ族の王レキアリウスを討つため、イベリア半島に軍を進めた。スエビ族はヒスパニアの属州に攻め入っていたからである。義兄弟で同盟者のゴンドリック王とキルペリック1世が率いるブルグント族の大軍も集められた。オルビゴ川の戦いは西ゴートの圧勝となり、レキアリウスは負傷して逃れたものの追われて捕らえられ、456年12月に処刑された。スエビ族の都ブラカラ・アウグスタも占領されたという。ガラエキアでは西ゴート軍による略奪や虐殺もあったとされる。スエビの王座にはアイウルフを立てたが、その不法行為によって内戦と混乱の時代が始まった。
その間に、アウィトゥスはガリア出身であることや蛮族に擁立されたことからイタリアで不人気となり、テオドリックがまだ遠征中で援軍がないまま、リキメルとマヨリアヌスの反乱軍に敗れて捕らえられて廃された。これを知ったテオドリックは、ローマの権威にひそかに逆らうようになった。マヨリアヌスが皇帝となると、テオドリックは北へ王国を広げようとしたが、マヨリアヌスに退けられ、アルルの戦いで大敗してイベリア半島の入植地を放棄し和平に応じた。460年にマヨリアヌスはヴァンダル族への遠征を行い、西ゴートも参加を強いられたが、カルタヘナの戦いでローマ艦隊は壊滅した。461年にマヨリアヌスが失脚すると、ローマ人の将軍アエギディウスとリキメルの争いのなかで、リキメルが支援を求めたため兵を送り、その見返りに港市ナルボンヌとその周辺を得て、地中海に新たな勢力圏を築いた。北ではアエギディウスがフランク族の副王を称して西ゴートと戦い、王弟フレデリックを殺害した。王はロワール川を国境とする和平に同意せざるを得なかった。この協定は貴族たち、とくに生き残った王弟エウリックには歓迎されなかった。466年、エウリックは貴族と同盟して兄を暗殺し、自ら王位についた。
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