伝記
前廃帝は、南朝宋の第5代皇帝である。姓は劉、諱は子業、小字は法師という。元嘉26年(449年)正月、武陵王劉駿の長男として生まれた。母は王憲嫄で、父と母は443年に結婚している。父が江州刺史として尋陽などの任地を転々とするあいだも、子業は都の建康にとどまっていた。
元嘉30年(453年)、叔父の劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、子業は侍中下省に監禁され、殺されそうになったことも一再ではなかったが、なんとか無事に切り抜けた。劉劭は処刑を考えたものの実行しなかったともいわれる。その年のうちに劉駿が劉劭を破って即位し、孝武帝となると、子業は救出され、孝建元年(454年)に皇太子に立てられた。456年には孝武帝の臣下の娘である何令婉が皇太子妃となったが、何令婉は461年に没し、二人に子は記録されていない。458年には別の宮殿に東宮が設けられ、460年には『孝経』を公開で講じ、463年に成人の服を着けた。
しかし幼少のころから暴虐で無軌道な性格とされ、叱責されても反省の色がなく、将来を危ぶまれていた。過ちを重ねて孝武帝にたびたび叱られたため、父と、孝武帝が寵愛した殷氏の子で弟の新安王劉子鸞を恨んだという。孝武帝は一時、子業を廃して子鸞を立てることも考えたが、官僚の袁顗が学問に熱心だと称賛したため思いとどまった。大明8年(464年)閏5月、孝武帝が崩御して子業が即位した。玉璽を差し出した蔡興宗は、その傲慢で悲しみのない態度を見て、治世の不吉を他人に語ったとされる。464年8月31日には祖母の路太后を太皇太后、母の王皇后を皇太后に尊んだ。即位するとすぐに、孝武帝が文帝の時代の法に加えた改変をすべて取り消させた。祖先の肖像を新しく描かせた際には、高祖武帝を「いくつもの王朝の皇帝を捕らえた英雄」と評し、文帝には「なかなか良いが、息子に首を取られたのは残念だ」と言い、孝武帝の像には鼻の大きさを誇張して描き直させたという。母の王太后が危篤になると、「病人のところには鬼が出る」と言って見舞いに行かず、怒った太后は侍女に、剣で自分の腹を裂いてこんなものがどうして生まれたのか見せよと命じたとされる。
朝廷では、大叔父にあたる江夏王劉義恭が最高位にあり、顔師伯と柳元景らが続いたが、当初の実権は孝武帝の側近の戴法興と巣尚之が握っていた。戴法興は子業の衝動的な振る舞いをたびたび抑え、無能のため廃されて殺された大叔父の少帝の末路を引いて戒めた。465年秋、子業は戴法興に自殺を命じ、巣尚之を免官にした。これに驚いた柳元景と顔師伯は、子業を廃して劉義恭を立てようと謀った。柳元景が将軍の沈慶之に相談すると、沈慶之は劉義恭と親交がなく、顔師伯に軽んじられたことを恨んでいたため、これを子業に知らせた。景和元年(465年)8月、子業は自ら衛兵を率いて劉義恭・柳元景・顔師伯らを殺害した。9月には劉子鸞に死を賜り、11月には何邁を獄死させ、沈慶之も殺害するなど、宗室や高官を次々と処断した。こうした行いのため、宋朝での人望を失った。この後に信任されたのは袁顗、徐爰、沈慶之らと、弟の豫章王劉子尚、姉の会稽公主劉楚玉であった。
叔父の湘東王劉彧は、腹心の阮佃夫・李道児らと謀り、この年の11月29日に後堂で子業を殺害した。在位は2年に満たなかった。皇后は路氏で、側室には、文帝の十女で叔母にあたる新蔡公主を謝氏に改姓させた劉英媚や、羊良娣、袁保林がいた。