伝記
江沢民は、中華人民共和国の政治家である。第3代の中国共産党総書記、第5代の国家主席、党と国家の中央軍事委員会主席を務め、天安門事件後の1989年から長く最高指導者の地位にあった。1926年8月17日、江蘇省江都県に生まれた。叔父の江世侯は共産党の幹部で、1939年に日中戦争のさなか地元の匪賊に殺害された。江沢民は公式にはこの叔父の養子とされるが、実父は日本軍占領下で協力者だったとみられるともいわれ、中国当局はこれを否定している。
1943年に揚州中学校を卒業して南京中央大学に入り、1945年10月の合併で上海交通大学に移って、1947年に卒業した。共産党には1946年4月に入党したが、このころは指導的な立場になく、一党員にすぎなかった。卒業後は上海で食品工場や石鹸工場の技術者として働き、建国後の1953年には第一機械工業部の課長となった。翌年に長春第一汽車製造廠へ移り、1955年にはモスクワのスターリン自動車工場で研修を受けた。1966年には武漢熱工機械研究所の所長に任じられた。同年に始まった文化大革命では実権派として攻撃されたが、「革命烈士の子弟」とされたため被害は少なかった。1970年に北京へ移り、ルーマニアの機械工場建設に派遣された視察団の団長として1年を現地で過ごした。1980年代には貿易や外国投資を担う官庁の要職を経て、1982年に電子工業部の第一副部長、1983年に部長となった。
1985年、上海の実力者汪道涵の推挙で上海市長となり、1987年には政治局委員兼上海市党委員会書記に昇った。同年末の学生による民主化要求運動には、学生と直接対話して説得にあたった。1989年4月に胡耀邦が死去して民主化運動が高まると、江は『人民日報』の社説にいち早く応じ、追悼座談会を報じた『世界経済導報』を停刊処分にした。この対応が陳雲ら保守派の長老の目に留まったとされる。6月4日に第二次天安門事件が起こり、趙紫陽が失脚すると、鄧小平によって党総書記に抜擢された。11月には鄧小平から党中央軍事委員会主席を引き継ぎ、1990年に国家中央軍事委員会主席、1993年に国家主席に就いた。以後、総書記、国家主席、軍事委員会主席を一人が兼ねる体制が定着した。
江は鄧小平の改革開放を継承し、1992年の第14回党大会で「社会主義市場経済」の導入を決めた。2001年には世界貿易機関への加盟を実現し、1990年に3888億ドルだった国内総生産は2000年に1兆71億ドルとなった。1997年に香港、1999年にマカオが返還された。一方で、台湾の李登輝との対話は1995年に決裂し、1996年にはミサイルを発射して緊張を高めた。経済発展は貧富や地域の格差、汚職、環境破壊も残した。1999年に法輪功の信者が北京の中南海を囲んだ事件が起こると、法輪功への厳しい弾圧を始めた。のちにアルゼンチンやスペインの裁判所は、弾圧やチベット人への迫害をめぐって江らに逮捕状を出したが、中国政府は強く反発した。
2002年11月の第16回党大会で、自ら唱えた「三つの代表」理論を党規約に加え、総書記を退いた。2003年3月に国家主席を退いたが、軍事委員会主席には2004年9月まで留まった。上海時代の部下を要職に引き上げて「上海閥」を築き、退任後も胡錦濤の指導部に影響を及ぼしたが、2006年に上海市党委書記の陳良宇らが汚職で摘発され、勢力は弱まった。2011年4月には急病で入院し、死亡説も流れたが、10月の辛亥革命100周年の式典に姿を見せた。2022年11月30日、96歳で世を去った。
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