伝記
ソフィア・アレクセーエヴナは、ロシアの皇女であり、ツァーリのイヴァン5世と、共同統治者ピョートル1世の摂政を1682年から1689年まで務めた女性である。旧暦1657年9月17日(グレゴリオ暦9月27日)に、ツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチとマリヤ・ミロスラフスカヤの娘として生まれた。事実上の女性君主として君臨した。
兄のフョードル3世が没する1682年までは、比較的目立たない存在だった。フョードル3世は20歳で子がなく、後継ぎ候補の弟イヴァンは心身が弱かったため、ピョートルとともに統治させる案が出た。ピョートルは10歳で、アレクセイの二度目の結婚で生まれた子で、その母ナルイシキナの一族ナルイシキン派が擁立し、ソフィアは母方のミロスラフスキー派とともに、この動きを妨げようとして、ストレリツィの蜂起に乗じ、ナルイシキン派を失脚に追い込んだ。同母弟のイヴァン5世をツァーリに立て、ピョートル1世をその共同統治者とした。二人のツァーリの並立は異例で、東ローマ帝国の先例によって正当化された。1682年9月15日、ソフィアは摂政に任じられた。
女性皇族は、クレムリンにあるテレム宮殿の最上階で外界から隔離されて暮らす決まりだったが、ソフィアはそこを出て、幼い二人の摂政の座についた。フョードル3世時代の実力者で西欧事情に明るいヴァシーリー・ゴリツィン公を主席顧問に任じた。銃兵隊には未払い金を払う一方、大半を辺境の防衛に配して力を弱め、素早く秩序を回復した。内政では、人文主義的な傾向のスラヴ・ギリシア・ラテン・アカデミーを設置し、ユグノー亡命者を受け入れた。ゴリツィンはモスクワの衛生対策や架橋などの整備に力を注いだ。1682年秋に古儀式派が反乱に加わると、ソフィアと宮廷は至聖三者聖セルギイ大修道院へ避難したが、最終的に反乱を鎮めた。1685年には古儀式派への罰を定めた十二箇条が公布された。
外交では、1686年に神聖同盟に加わって大トルコ戦争に参戦し、同年ポーランドと恒久平和条約を結んで、キエフなど占領中の旧ポーランド領の保有を認めさせ、賠償金で補償した。1689年には、ヨーロッパの国として初めて清とネルチンスク条約を結んだ。ところが、ゴリツィンが率いた1687年と1689年の2度のクリミア遠征は、いずれも輜重の不足で失敗に終わり、摂政政府の威信は失墜して、人々は成長したピョートルに期待を抱き始めた。ソフィア自身は、ツァーリのみに許される専制君主の称号を用い、自分の肖像入りの貨幣を発行して権威づけを図り、自ら皇帝になる意志があったとされる。
1689年の年明けにナルイシキン派がピョートルを結婚させて成人を示すと、同年8月に緊張が高まり、ピョートルは至聖三者聖セルギイ大修道院に避難した。政府高官や将校、聖職者の多くがピョートルを支持し、ソフィアは9月に全顧問官を引き渡して、ノヴォデヴィチ女子修道院に入った。ゴリツィンはシベリアに流された。1698年にストレリツィの蜂起が再発すると、証拠のないまま首謀者と疑われ、修道院の前で反乱者数名が見せしめに処刑された。ソフィアは1704年7月3日(旧暦)に没した。女性君主が権力を握る前例を開き、18世紀の女帝の出現を受け入れやすくしたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ギヨーム・ド・ロピタル (1704年没)
- Elizabeth Juliana of Schleswig-Holstein-Sonderburg-Nordborg (1704年没)
- ハインリヒ・ビーバー (1704年没)
- ゲオルク・ムッファト (1704年没)
- ジョン・ロック (1704年没)
同じ地域に関係する人物
- イワン・チュレネフ (1978年没)
- Vladimir Pikalov (2003年没)
- Vladimir Dudintsev (1998年没)
- ホルローギーン・チョイバルサン (1952年没)
- アダム・ルートヴィヒ・レーヴェンハウプト (1719年没)